太田述正コラム#10842(2019.10.5)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その36)>(2019.12.26公開)
「・・・進歩という・・・概念<(注41)、ないし>、・・・人生観は、西洋でも出来上ってまだそれほど経ってはいなかったが、東洋の諸国民にとってはなおさら目新しいものだった<ところ、>日本人が他の東洋人よりはそれへの受けいれ態勢がととのっていたことは、認めておかなければならない・・・。
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[欧米における進歩主義]
〇ホイッグ史観
Whiggish historiography。「元来、<イギリス>史の概念で、トーリー党(王党派、後の保守党)に政治的に優越したホイッグ党(議会派、後の自由党、現在の自由民主党)が、自派に有利な歴史記述を行ったことに由来する。トーマス・マコーリー(1800年~1859年)『History of England(<イギリス>史)全5巻』(1848年~1861年)がホイッグ史観の代表的な歴史書である。狭義では、ブルジョワジーを擁護し、資本主義発展を目指す自由主義を指す。・・・
アングロサクソン、特に七王国時代の<イギリス>はゲルマン的な自由な社会だったと<の>・・・一般自由人学説<を前提とし、>・・・イギリスの現代の進歩をもたらした功労者はホイッグ・プロテスタントであり、それに逆らった者がトーリ党・カトリックである。前者の代表が・・・エリザベス<や>・・・ウィリアム3世・・・<であるのに対し>、後者<の代表>はジェームズ2世やジョージ3世など<と>される。・・・
<明治初期、>・・・福澤諭吉<や>竹越与三郎・・・ら多くの知識人によって紹介されたイギリスは、ホイッグ史観にもとづく肯定的・楽天的イメージが伴うものだった。こうしたイギリス理解は、日本人の中のイギリスの印象をほぼ決定づけ、さらに自由民権運動の思想的・理論的下地を提供する役割もはたした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%A4%E3%83%83%E3%82%B0%E5%8F%B2%E8%A6%B3
〇進歩史観
progressive view of history。「歴史を人間社会のある最終形態へ向けての発展の過程と見なす歴史観。例えばホイッグ史観では、現体制を理想の最終形態とし、過去の歴史をこの現在の体制に至るまでの漸進的発展と見なすことで現体制を正当化する。一方、唯物史観では未来に最終形態である共産制を設置し、現在の社会をそこに向かう途中の一時的な段階であると解釈する。
西欧で・・・キリスト教の終末思想に端を発し、18、19世紀の啓蒙時代に広く唱えられた。 オーギュスト・コント、ヘーゲル、マルクスらが代表的である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E6%AD%A9%E5%8F%B2%E8%A6%B3
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⇒すぐ上の囲み記事を批判的に踏まえれば、次のように言えるのではないでしょうか。
サンソムは、前にも記したように、イギリス人ではあるものの欧州で高等教育を受けており、彼が「進歩(progress)」と言う時、「進歩史観」を念頭に置いている可能性が高い、と私は見ています。
他方、上掲の進歩史観の邦語ウィキペディアは、進歩史観の中にホイッグ史観を含めているところ、ホイッグ史観とは、11世紀のノルマン・コンケスト以来、私の言うところのプロト欧州文明によって、アングロサクソン文明の本来の姿が若干歪められてしまっていたイギリスが、17世紀の名誉革命以降、本来の姿のアングロサクソン文明を再び享受するようになって現在に至っている、という、一種の復古史観なのであって、私見では、決して進歩史観などではないのです。
但し、最も早くからアングロサクソン文明の総体の継受、ないしは、相当部分の継受、に努めてきた結果成立したところの欧州文明諸国が、それをプロト欧州文明からの「進歩」と称したり、プロトを含む欧州文明以外に属する諸国がアングロサクソン文明や欧州文明の継受に努めることを「進歩」と称したり、することは当然あり得たことでしょう。
(ちなみに、マルクス主義史観もまた進歩史観ではなく一種の復古史観であって、ホイッグ史観との違いは、復古すべき時期が11世紀より前どころか、狩猟採集時代であって、かつまた、かかる復古が未だ達成されておらず将来の課題とされている、という2点です。)
幕末から明治期にかけての日本・・王政「復古」が追求されたその日本ではホイッグ史観的なものが一世を風靡していた・・で「進歩」が意味したところのものはまさにそうであったと見てよい、と私は思っています。
ここで重要なのは、イギリス(アングロサクソン文明)や欧州(欧州文明)とは違って、当時の日本(日本文明)は、というか、当時の少なくとも島津斉彬コンセンサス信奉者達は、継受すべきアングロサクソン文明を普遍的な文明であるとは必ずしも思っていなかったにもかかわらず、同文明の相当部分の継受に努めたことです。(太田)
インド人やシナ人はこの進歩の概念になじまず、それを不愉快にさえ感じた。
それが太古以来の宗教信仰や社会組織と衝突したからである。・・・」(46)
⇒時代の制約もあったのでしょうが、サンソムの記述は雑駁に過ぎるのでは?
私の見解は以下の通りです。
戦後、インド亜大陸がインドとパキスタンに分かれて独立したのは、前者を構成した人々の多くは旧宗主国が体現していたところのアングロサクソン文明の普遍性を信じたのに対し、後者を構成した人々の多くは信じなかったからである、と見た方がいいのではないでしょうか。
(しかし、独立後、半世紀経った頃から、普遍性を信じない勢力がインドでも主流になり、現在に至っている、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%9A
とも。)
他方、支那では、長期にわたる混乱期を経て、アングロサクソン文明の普遍性を信じず、日本文明の普遍性を信じる勢力が戦後権力を掌握し、現在に至っている、と。(太田)
(続く)