太田述正コラム#10848(2019.10.8)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その39)>(2019.12.29公開)
「・・・長年にわたって特に薩摩・長州出身の人間が、政治の舞台を牛耳り、陸海軍の枢要の位置を占めるという状態が続くことになった・・・。
このような成り立ちをもつ代々の政府が、余儀なく或る特殊な性格を帯びるようになり、この性格が日本の国策形成において、日本に及んだ外国の影響と同じほど重要な働きをしたことは、明かである。
あるいは、このことを別な面からいえば、こういった外国の影響は、維新運動の歴史と、その運動をまきおこし完遂した人たちの閲歴とから来る限界のなかでのみ、作用しえたのである。
維新を、封建制度や封建的思考が無限定の西欧の形式や思想によって置きかえられていった過程、とみなすことは、その本性と諸結果を見誤ることにもなるだろう。
廃藩後の政府が経たさまざまの経験は、この政府の指導者たちが再建の大方針をもちあわせていなかったことを示している。
⇒薩長閥的なものが存在したかどうかもさることながら、サンソムが、「或る特殊な性格」ないし「維新運動の歴史と、その運動をまきおこし完遂した人たちの閲歴とから来る限界」が存在したのは、「再建の大方針<・・私見では、島津斉彬コンセンサスないし横井小楠コンセンサス・・>をもちあわせてい<た>」からこそであって、「西欧の形式や思想」の「影響」が「限定」的であったのは、これらによる「置きかえ」が、かかる「再建の大方針」の手段として役立ちうる限りにおいて取捨選択的になされたから、という可能性を考えた形跡がないのが不思議でなりません。(太田)
彼らには前途をはるかに展望することが不可能だった。
彼らは一足一足進む以外にはなかったし、それはまた不安動揺の時代にあっては当然であり、実際避けがたいことでもあった。
彼らが抱いていた一般的な目的は、安定した中央政府をつくりあげ、自国の軍事力・経済力を発展させて、国が自信をもって未来の国際関係に立ちむかえるようにする、ということだった。
<かかる>長期国策の上ではすべての党派すべての分子が一致していた。
しかし目前の問題はまず国内の平和を保全し、政府を支持する諸藩連合が瓦解しないようにすることだったのである。・・・」(62)
⇒「政治の舞台を牛耳り、陸海軍の枢要の位置を占め」た人々が、サンソムの主張のように「再建の大方針をもちあわせていなかった」のか、それとも私の主張のように「もちあわせてい」たのか、によって、このくだりの意味が全く異なってきます。(太田)
「・・・維新前数年間、勤王・反幕の運動は、吉田松陰といったような人たちの教えに励まされていたが、その松陰たちの論というのは、アジアにおける日本の勢力拡張のために必要な前提として、天皇の下に権力を集中すべし、というのだったのである。
実際、これは十分明白なことだが、拡張主義の究極のもくろみは、すでに大概の維新指導者たちが心に抱いていたものであり、(東洋の犯した悪行を西洋の腐敗のせいにする、当今流行のやり方に従って)19世紀末日本は、当時のヨーロッパを範としてのみ、あの対外戦争を行なったのだ、という風に考えてみる必要はないのである。
膨張への衝動は、長期間にわたって潜在的であったとはいえ、日本の全歴史を通じて見てとれるものである。・・・
⇒「ヨーロッパを範としてのみ、あの対外戦争を行なった」、は、「ヨーロッパ諸国に、それまでのアジア等に対する対外侵略の結果形成した諸植民地や諸半植民地を放棄させるべく、あの対外戦争を行なった」、でなければなりません。
いずれにせよ、サンソムは、日本の「膨張への衝動は、長期間にわたって潜在的であったとはいえ、日本の全歴史を通じて見てとれる」ことを裏づける典拠を挙げるべきでした。
悪魔の証明ではあっても、日本に関してそんなものがないことは明白、いや、もう少し謙抑的に言えば、日本に関して欧米諸国同様の「膨張への衝動」を裏づける典拠がないことは明白、でしょう。(太田)
西郷にしろ、島津にしろ、どちらにも政府の国内政策を支持する意図のないことは明らかだった。
彼らはどちらも、西郷は主として個人的野心にもとづいて、島津はまったくの反動的感情から、なんらかの形での封建権力の復活を狙っていた。・・・
⇒薩摩の志士達の掲げた旗印に過ぎなかった島津久光についての評価はともかくとして、サンソムが、志士達である松陰や西郷を不当に貶めているのはこれまた明らかであり、彼の正体見たり、という思いです。
なお、西郷に関しては、彼が支持しなかった政府の国内政策というよりは対外政策であった(コラム#省略)、という点も指摘しておきましょう。(太田)
日本人は概して、主義主張に対してよりも、人物の方に興味をもつように見受けられる。
そしてその後の政治の歴史が示しているのも、日本では、他の東洋諸国におけると同様、個人的な人気の方が、しばしば公人としての能力やまた廉直ささえよりも、もっと重要だということである。」(68~69、72)
⇒「しばしば」の定義にもよるけれども、まあ、典拠なしでナンセンスである、と断じていいでしょう。(太田)
(続く)