太田述正コラム#10864(2019.10.16)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その47)>(2020.1.6公開)
「・・・日本人は、もし自分たちがどうしても国際交誼という危険なサークルのなかに入らなければならぬのなら、近代のどの大国にも世界情勢を支配する強力な地位を与えているらしい武器の類を、自衛のために自分たちで製造するようにならなければならぬことを明瞭に見てとったのである。
このことは日本が、できるだけ速く、武器ばかりでなく、政治・法律・工業・商業上の近代的な装置をも、一式備えるようにならねばならぬということを意味していた。
⇒「欧米」人のサンソムにとっては、原文は英語で英米の読者を想定していることから、説明を要しないのでしょうが、日本人向けには、翻訳者達が脚注を付けるべきでしょう。
すなわち、イギリスが「発明」したところの、欧米の国民国家なるものは、戦争を遂行し支えるための装置に他ならない(コラム#省略)、ということを・・。(太田)
この目標は日本が完全な政治的独立をえていぬ限り、けっして完全に成就しうるものではない、と彼らは確信していた。
そしてこの政治の完全独立は、最初の諸条約が効力をもちつづけて、司法や財政の自立のような、完全主権のための条件を否認しつづける限り、実現不可能なことだったのである。
⇒こんな諸条約を、充分な調査研究も行わないまま、しかも勅許も得ずに、締結してしまった幕府は倒されて当然だった、と、誰も言わないのは不思議でなりません。(太田)
日本人が外国の生活様式をとりいれることに決めたのは、彼らが西洋文化のもっている絶対的な諸長所を認めたからであるより–その点について合理的な判断を下すことは当時の彼らにはまだできなかった–むしろ、日本人が世界に対し西洋社会のもっともらしい模倣を誇示するのが一日も早ければ早いほど、不平等条約も早く改正されるだろうと考えたからであった。
これが彼らの目標だったのである。
そして、明治初期の歴史で不明瞭なことも、右の状況に照らしてみると明かになることが多い。・・・
⇒日本政府の明治初期における当面の目標であったことはあながち間違いではありませんが、その目標を、日本政府内外の島津斉彬コンセンサス信奉者達や横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者達の長期目標の中に位置づけないと、「明かになることが多」くても「全て明かになること」はないでしょう。(太田)
東本願寺は西本願寺をおさえて徳川家の厚遇をえていた<(注57)>が、その結果西本願寺派は幕府に対しある敵意を抱くにいたった。
(注57)「江戸幕府内では当時の門主准如(顕如の三男)が関ヶ原の戦いにおいて西軍に味方したことから、准如に代わり教如<(顕如の長男)>を門主にするとの考えもあったが、真宗の力を削ぐのに有効との考えから結局・・・豊臣秀吉の命により本願寺の寺内で隠居所(御影堂と阿弥陀堂もあり)を設けて、北方に隠居させられていた教如・・・へ烏丸七条に寺領が寄進され、本願寺が正式に西(<准如の>本願寺派)と東(<教如の>大谷派)に・・・分立させることになった。とは言うものの元来、教如は石山合戦以来の自らの派を有しており、宗派内部は既に分裂の状態にあった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA
長州、薩摩の反乱分子が調停を幕府に対抗させるべく京都で暗躍していたとき、彼らは西本願寺内に避難所を提供された。
ここに逃げこめば幕府警察の手も及ばなかったのである。
⇒これを書くのであれば、サンソムは、以下にも触れるべきでした。↓
「新選組は、・・・壬生・八木家を屯所としていた<が、>・・・池田屋事件に続いて禁門の変が起こり、幕府にとって長州が討伐対象になると、増員で手狭となった新選組の屯所を親長州派の西本願寺に移転させた。これは、西本願寺と長州系志士たちのつながりを絶つことを狙いとしたものといわれる。
西本願寺は、浄土真宗本願寺派の本山。戦国時代、本願寺は織田信長と長期抗争状態(石山合戦)にあったが、その間毛利家は本願寺に兵糧を運び込んで助けていた。そうした縁があり、幕末期にあっても本願寺は長州藩・長州系志士を支援していた。
大所帯となった新選組は西本願寺の北集会所と太鼓楼を屯所とし、僧侶や信徒たちの迷惑も顧みず武芸の稽古や砲撃訓練などを繰り返した。仏教で忌まれている肉食も境内で大っぴらに行われたという。傍若無人なふるまいを続ける新選組は、寺側にとってはまったく招かれざる客だっただろう。ついに本願寺は、新選組のために新たな屯所を建設する費用をもつという条件で退去を要請した。こうして新選組は慶応3年(1867年)6月に西本願寺からほど近い不動堂村に建てられた新たな屯所(不動堂村屯所)に移転していった。」
http://www.japanserve.com/bakumatsu/spt-kyoto-honganji.html
なお、「京都とその周辺(山城・丹波・近江・大和)の裁判及び天領に関する行政の権限<を有する>・・・京都町奉行<は、>・・・老中支配であるが、任地の関係で京都所司代の指揮下で職務を行った<ところ、>京都町政の他畿内天領および寺社領の支配も行うため、寺社奉行・勘定奉行・町奉行の三奉行を兼ねたような職務であった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E7%94%BA%E5%A5%89%E8%A1%8C
というのですから、「西本願寺内・・・に逃げこめば幕府警察の手も及ばなかった」というサムソンの指摘は間違いではないでしょうか。(太田)
薩長武士は維新後もこのことを覚えていて、伊藤[博文]・井上[馨]・児玉[源太郎]・寺内[正毅]といった人たちは、西本願寺歴代管長に好遇を与え、彼らの出身地における仏教の再興を助ける結果となった。
⇒西本願寺門主の大谷光尊(1850~1903年)の働きかけで、「親鸞に対しては明治9年に見真大師号が、蓮如に対しては明治15年に慧燈大師号がそれぞれ下賜された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%85%89%E5%B0%8A
ことや、その息子で門主を継いだ大谷光瑞(1876~1948年)・・大正天皇の皇后の姉と結婚・・の、若き時代の「大谷探検隊」「隊長」、その後の孫文の中華民国政府の最高顧問、更には先の大戦中の内閣参議、内閣顧問、としての活躍
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%85%89%E7%91%9E
が思い起こされます。(太田)
そののち、西南諸地方、とくに長州地方の民衆が明治政府の新課税に対して反抗したとき、政府内の長州出身者たちは本願寺に依頼して、同派信者たちに税は払わねばならぬことを説得させた。
明治初期の歴史は、その主な立役者たちの個人的な人間関係について、多少の知識がなければ、理解が難しい。
これまでよくのみこめなかったある事柄が、その背後にある個人的な友人関係や、いさかいや、家族のつながりを知ってはじめて明かになるということが、よくある。」(131、137)
⇒幕末に関しては概ね同意ですが、ご承知のように、私は、幕末においては「藩論」と島津家を中心とする「家族のつながり」を重視しつつも、明治以降においては、そういったものよりは、「島津斉彬コンセンサス」、「横井小楠コンセンサス」、「勝海舟通奏低音」、のせめぎ合い「を知ってはじめて明かになるということが、よくある」と考えているわけです。(太田)
(続く)