太田述正コラム#10873(2019.10.20)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その51)>(2020.1.10公開)

 「・・・年金を補うために仕事を見つけなくてはならなかった士族のなかでも、普通より教育のある人たちにとっていちばんよい勤め口となったのは、官吏に雇われることの次に、おそらく・・・新聞や本の原稿を書き、印刷し、出版するという仕事であったろう。・・・
 <例えば、>『天路歴程』<(注63)>(Pilgrim’s Progress)・・・は神戸のある新聞に3年間にわたって連載された。

 (注63) 「Part I (1678年)正篇、 Part II (1684年)続篇)は、イギリスのジョン・バニヤン(バンヤン、バニャンとも)による寓意物語。プロテスタント世界で最も多く読まれた宗教書とされ<る。>・・・なお「天路歴程」の題名は、19世紀に先行した漢文訳を受け継いだもの。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E8%B7%AF%E6%AD%B4%E7%A8%8B

 ・・・初期の新聞が<、このように、>翻訳に依存する度合いは非常に高かった・・・。・・・
 この新聞業およびそれと関連ある職業のつぎに大量の士族を惹きつけたのは、医学・工学方面であった・・・。・・・
 維新後の日本の歩みはほとんどまったく武士階級出身の者をその推進力としていた。
 ところがさらに、彼らのなかでももっとも有能な者の多くは、予想されるような反幕派諸藩の出身者ではなくて、旧幕府に属し行政担当者として、一般官吏として、また学者として働いていた人々だったのである。
 明治初期の政府に仕えた高名な人物のリストを見ると、徳川直属の家臣、および維新前に諸藩から江戸幕府に身分を移して、文官として、あるいは技術顧問として仕えたという諸藩士の名前が多い。

⇒但し、後者の中には、福澤諭吉のように、徳川直属ならぬ中津藩出身で、私の見るところ薩摩藩からスパイとして幕府に送り込まれた人物もいたことに、注意が必要です。(太田)

 このようなところから、薩長連合のリーダーシップの下に働いた官吏は、保守的なタイプの役人で、自分の能力を政府当局の用いるがままにまかせてよしとし、めったに政治的な役割を演ずることはなかった、という事情が生じてくる。
 しかしまた他方には、藩閥に仕えるのをいさぎよしとしなかった非妥協的なタイプの士族もいて、その抗議の一手段としてジャーナリズムに結集してゆき、その結果ほとんどどの新聞も政府に対して敵対的、あるいは少くとも批判的であるということになったのである。
 このような事情が日本の新聞に独特の性格を賦与し、それは長く守りつづけられたのであった。・・・

⇒「薩長連合」など存在しなかったという話はさておき、サンソムは、東大を中心とする大学の学者達が、明治維新以降、この官僚達やジャーナリスト達の利用に供するための、翻訳的「学問」を生み出し続けたことに触れるのを忘れています。
 戦前においては、大学の多くは国立でしたから、その学者達は、自身、官僚達でもあったわけですが・・。(太田)

 プロテスタントの指導的な宣教師で、日本の状況に精通している人が、1890年(明治23)以降の情勢について・・・若干の興味ふかい観察を行なっているが、それはその時期におけるキリスト教の見とおしについての注意深い<弱気の>考察をふくむ評価といえよう。・・・

⇒その「人」が誰であるかを明かしていないのには困ったものです。(太田)

 この<人物>は当時の、そしてたぶんいつの時代でもそうであるところの、日本の生活の非常にはっきりとした特徴を指摘している。
 すなわち社会的義務にたいする強い感情と、その反面にみられる西洋人が理解する意味での深い宗教感情の欠如とである。・・・」(178~179、240~241)

⇒要するに、それは人間主義であって、しかも、それは、あらゆる人間に潜在的には遍在しているところの、普遍性ある倫理感覚であるわけですが、サンソムがその解明に正面から取り組もうとしなかったのは残念なことです。(太田)

(続く)