太田述正コラム#10877(2019.10.22)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その53)>(2020.1.12公開)
「・・・幕府も、またいくつかの藩でも、さまざまな種類の機械の据付けが行われ、外国人の技術教師を雇ったり、その助言を得たりしていたが、それは主として大砲製作と軍艦建造のためで、それ以前からとはいわないまでも、すでに1850年(嘉永3)から行なわれていた。
これらの第一歩は軍事的理由から踏み出され、そのために国家経済のその後の成長に特別な性格が与えられたのである。
というのは、国家経済はそのはじめがそうであったように、重工業に重きをおいて伸長したからで、そのために西洋で起こった発展の普通の順序を逆転させたからである。・・・
<その結果、>工業、特に重工業に重点を置いて農業の利害を比較的に等閑視したことが、明治の初期に大きな面倒をひきおこし、そして(こういっても良いと思うが)農業問題の解決を無期限に延期したのである。
この農業問題は、のちにもさまざまな形でさまざまな時期にいつも日本政府の頭痛の種となったのであった。
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[地主制]
「法律的には所有権が圧倒的に強く、耕作権が不安定であり、経済的には高率の現物小作料が支配的で小作人に経済的余剰を与えず、社会的には小作人が地主の温情に頼って耕作を続けるため両者の関係が単なる土地の貸借関係にとどまらず、家父長的関係になっていることの総体を指すものである。地主的土地所有は明治6年(1873年)の地租改正を契機として農村に根を下ろし<(注66)>、31年の民法施行により確立し<(注67)>、大正初期までは牢固として揺るがなかった。しかし、大正中期から小作争議が激しくなり、農林省も小作制度の改善に努力するようになってからは、さしもの地主制も次第 に動揺しはじめ、戦時立法によって著しく弱化、戦後の農地改革によって完全に解体されたのである。」
https://www.rieti.go.jp/jp/publications/dp/17j040.pdf
(注66)「地租改正は、統治する側から見れば、江戸時代の年貢(物納)制度を近代的な租税(金納)制度に改めたことになる。経済全体としては、これによって近代的な土地所有権制度が確立された。他方、農業・農村サイドから見ると、地代徴収権者を土地の所有者としたことから、地主制を生み出し、高額の小作料によって小作人の生活を圧迫し、大正期以降に多数の小作争議を発生させることとなった。明治初期の小作料は収量の68%、1885年で58%、1941 年 で52%に及んだ。・・・しかも年貢に代わった地租は金納となったのに、地代である小作料は物納のままだった。」(上掲)
(注67)「フランス民法の影響の強い旧民法[・・1890年(明治23年)に公布され、民法典論争により施行延期となり、そのまま施行されずに終わった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E6%B3%95_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
・・]は、賃借権を債権よりも強い権利である“物権”として位置づけたため、小作人の立場を 強化するものとして、地主勢力の強い反対に遭った。・・・1898年に施行され た改正民法は、賃借権を、土地が譲渡されると買い手に権利を主張できない、買い手は土地を取り上げることができる(「売買は賃借権を破る」という法源があ る)うえ、容易に解約され、更新も拒否されるかもしれない“債権”と位置づけることとなった。このため、賃借人である小作人の地位は、著しく弱いものとなってしまった。」(上掲)
「明治政府が重い負担を農民に課し、その負担の下で資本主義を発展させざるを得なかったのは、<米>公使ジョン・アーマー・ビンガムやカナダ外交官ノーマンらの指摘によれば、不平等条約により正当に得られるべき関税収入を得られなかったためにその負担を農民に課さざるを得なかったことが主因である。
これに対比して、<英国>やフランスのような国々では外国貿易と初期の植民地利潤を通じて資本の蓄積が実現された。この理由から、先進国の農民階級は日本の農民が背負わなければならなかった負担をある程度免れたのである。
— E・H・ノーマン『日本における近代国家の成立』
例として、1890年(明治23年)における日本の内国税収入と海関税の比率は100:6.43であるのに対し、<米>国は100:169.03。
歳入の内、地租の占める割合は、<英国>の1.27%に対し、日本は58.07%に及んでいた。
政府・民党共にこの問題は認識されており、帝国議会において、積極財政政策による救済か、緊縮財政による民力休養・政費節減かで激しく対立していた。
政府側の井上毅は、地租維持はやむをえないまでも、農村を安定化させて市場経済に対応させるべきであり、戸主の権限を強化して家制度を確立し、農家の解体を防ぐことが合理的であるとの構想に至り、内閣の方針に反して旧民法延期論に回った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E6%B3%95%E5%85%B8%E8%AB%96%E4%BA%89
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⇒すぐ上の囲み記事内の話を何らかの形でサンソムはすべきであって、「農業の利害を比較的に等閑視した」などと書くのは不親切を通り越して誤りに等しい、と思います。
なお、ノーマンらの説明もおかしいのであり、後発国が国家主導で急速な近代化を図る場合、ソ連にせよ、中共(大躍進、改革開放)にせよ、農業/農村の犠牲において工業化を押し進めざるをえないもの(典拠省略)であって、日本の場合に、関税自主権がなかったことをノーマンらのように強調し過ぎてはいけません。(太田)
その間、古い階級の米仲買人や金貸しが近代産業に資本を投下することを躊躇し、そして投機の危険をおかそうとする小投資家の階級がなかったところから、三井、岩崎、住友、安田、鴻池、その他の少数の数少い豊かな商人銀行家の一族が特別の重要性を帯びるようになった。
これらの家族は進んで政府を授け、その代償として受けた便宜によって「財閥」として知られる強力な結合(コンビネーション)に発展したのである。
この財閥という金融上の寡頭制は、藩をもとにする寡頭制である藩閥と手に手をとって進んだのであった。
このようにして外国の影響にふれることがほとんどなかった時期からの遺物が、近代日本経済の上に深い刻印をしるしたことが見られるのである。
商業や産業へ国家が干渉する慣習は、徳川時代につくられたものであり、取引上の独占と一手契約人の特権は、過去においても愛顧をうけた商人が享受したところであり、また英国の農村に劣らず日本の農村でも醸造業者は力が強かった。・・・
それ<ら>が発揮した効果は同時代の西洋の影響に抵抗するか、あるいは影響を緩和することにあった。」(267~268、271~272)
(続く)