太田述正コラム#10883(2019.10.25)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その2)>(2020.1.15公開)

 「・・・チベット潜入を果たしたもう一人の西本願寺の僧侶、多田等観<(注4)>は、ダライ・ラマ13世の斡旋でラサ三大寺院の一つセラ寺に留学、滞在期間はなんと10年に及んだ。

 (注4)1890~1967年。秋田市の寺の子として生まれ、「西本願寺に入籍、法要を手伝うようになる。第二十二世法主の大谷光瑞にその才覚を認められ、ダライ・ラマ13世が派遣したチベットの高僧ら留学生3人の世話役と<なる。>・・・1911年(明治44年)に・・・辛亥革命が勃発。ダライ・ラマ13世は留学生に一時帰国するように・・・連絡<、>・・・等観は・・・留学生に請われて彼らのインド行きに同行<し、>・・・インドにてダライ・ラマ13世に謁見。・・・ラサにくるようにと要請を受ける。1年のインド滞在の後、等観はイギリス官憲の監視の目を逃れるため変装してインドを出発。ヒマラヤ山脈を越える過酷な道程を、高山病に苦しみながらもほぼ裸足で走破し、1ヶ月でラサに到着<、>・・・直後に、ダライ・ラマ13世は等観に、正式なチベット仏教の修行を受けるよう命じ、その身をチベット三大寺院のうちのひとつのセラ寺に預ける。同時に13世は等観に国際情勢の説明役の地位も与え、ポタラ宮などの主要宮殿への出入りを許可する。・・・そしておよそ10年の修行ののち、・・・デルゲ版のチベット大蔵経全巻や、薬草、医学に関する秘蔵書や稀覯本など、13世が集めさせた24,000部余りの文献とともに日本に帰国する。・・・1953年(昭和28年)に大蔵経以外の文献の目録「西蔵撰述仏典目録」を刊行。この業績により等観は1955年(昭和30年)、共同で編纂にあたった<ところの、彼が在籍していた東北大の>学生らとともに日本学士院賞を受賞」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%94%B0%E7%AD%89%E8%A6%B3

 当時は青木と多田に加えて二度目のチベット旅行中だった河口慧海<(注5)(コラム#5650)>と、チベット軍の軍事顧問に採用された矢島保治郎<(注6)>という異色の民間冒険家も含め、4人の日本人がラサに暮らしていた。

 (注5)かわぐちえかい(1866~1945年)。摂津国堺の桶樽職人の子。「井上円了が東京市に創設した哲学館(東洋大学の前身)で外生として苦学した。1890年(明治23年)に黄檗宗の五百羅漢寺(当時は東京本所にあった)で得度を受け出家・・・中国や日本に伝承されている漢語に翻訳された仏典に疑問をおぼえ、仏陀本来の教えの意味が分かる物を求めて、梵語の原典とチベット語訳の仏典入手を決意・・・数々の苦難の末、・・・日本人として史上初の<1回目・・>セラ寺の大学にチベット人僧として<学ぶ・・を含む>・・・2度のチベット入りを果す。帰国した後、1921年(大正10年)に還俗・・・大正大学教授に就任」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%8F%A3%E6%85%A7%E6%B5%B7
 (注6)1882~1963年。群馬県の現在の伊勢崎市の裕福な農家の子。日露戦争に従軍し金鵄勲章を授与されたが、河口慧海『西蔵旅行記』に大きく刺激されて除隊、チベットに入国した4人目の日本人となることに・・・1911年(明治44年)3月・・・成功。四川省から入った人間としては矢島が日本初。その後、一旦日本に戻るが、2回目のチベット行きの「資金を引き受けたのは川島浪速であった。川島は満州・モンゴルの独立運動を行なっていた人物であるが、チベットも最終的には独立させたいと考えており、その計画の一環として矢島へチベットの情報収集を依頼する。こうして、川島から資金の提供と情報収集の命を受けた矢島は、日本滞在わずか2日で再び船に乗りインドへ向かった。・・・
 <ラサ入りを果たした矢島は、>チベット軍の参謀総長と知り合いになり、軍事顧問として迎えられ、兵舎の設計や部隊の教練も依頼された。さらに、矢島の訓練した隊の演習成績が特に良かったことがダライ・ラマの目にとまり、近衛兵の編成と訓練を頼まれるようになる。矢島は親衛隊長としてダライ・ラマが巡幸を行なうときは常に近衛兵を率いて護衛にあたり、また現地の豪商の一人娘と結婚して子供も産まれた。ダライ・ラマからは絶大な信頼を得て<た>・・・。しかし、その後<英国>のインド政庁がダライ・ラマに矢島の追放を要請。・・・1918年(大正7年)10月、妻子を連れてラサを発ち、インドを経由して日本へ帰国した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E5%B3%B6%E4%BF%9D%E6%B2%BB%E9%83%8E
 川島浪速(なにわ。1866~1949年)。松本藩士の子。東京外大中退、日清戦争と義和団の乱に陸軍通訳官として従軍、清の北京警務学堂学長、辛亥革命後、小磯国昭らと通謀し、粛親王を擁して第1次満蒙独立計画に着手するも日本政府の命令で挫折。「大正5年(1916年)、第2次大隈内閣の「反袁政策」のもとで、参謀本部・関東都督府などの後援を得て、第2次満蒙独立運動を画策したが、この時も日本政府の方針転換と袁世凱の死去などにより失敗に終わった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%B3%B6%E6%B5%AA%E9%80%9F

⇒この本のタイトルからして、本筋ではないプロローグ的な部分ですが、結構、明治期の日本の庶民出身の中にも冒険心に富んだ人々がいたなあ、という印象を持ちますね。
 なお、日本の当時の仏僧達・・徳川幕府が課した制約や行政事務下請けから解放されてエネルギーが横溢し時間を持て余すに至ったと思われる・・のチベットへの強い関心は、以上に登場したダライ・ラマ13世の後を継いだ現在のダライ・ラマ(14世)への世界的関心を想起するだけでも、容易に想像できるというものです。
 但し、仏僧ではない矢島を突き動かしたものが何であったかは、今のところ解明できていません。
 川島が(私の言う)島津斉彬コンセンサス信奉者であったことは間違いないけれど、矢島と川島とは袖すり合う程度の関係しかなかったようなので・・。
 なお、仏僧とはいえ、庶民出身では全くないところの、大谷光瑞の事績と島津斉彬コンセンサスとの関係については、このすぐ後の囲み記事を参照のこと。(太田)

(続く)