太田述正コラム#10889(2019.10.28)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その5)>(2020.1.18公開)

 「・・・<ところで、>河口慧海<は、>・・・「チベット人は糞を喰う餓鬼とも謂うべきもので、まあ私の見た人種、私の聞いておる人種の中ではあれくらい汚穢(おわい)な人間はないと思うです」と言い切って<いますが、>・・・西川<一三>は、在日チベット人たちを前にして「チベット人は大嫌いです」「チベット人から学ぶことは一つもないです」といった放埓な発言を繰り返したようだ。・・・

⇒チベットないしダライ・ラマに対する欧米人のオリエンタリズム的憧憬と日本人の冷淡な態度とを分かつ原点を河口や西川のチベット観に見出すことができますが、恐らくは後者が「正しく」、これは漢人チベット観と近似していると言えそうです。(太田)

 当時、西川は83歳・・・。・・・
 <その>西川が戦後の日本をどう見ていたか、それをうかがわせる記述<が、彼の著書の>・・・『秘境西域八年の潜行』のなかにある。

 敗れた祖国日本は本当に戦いに敗れたのだろうか。
 たとえ目的、手段が正当でなかったという非難は非難としても、インド、ビルマ、シンガポール、タイ、インドネシア、フィリッピン、朝鮮の独立という事実は、日本の大東亜戦争における戦果であるといっても過言ではあるまい。
 その日本が反対に、米国の植民地となりつつあるということは、アジアの同志をどれほど悲しませていることであろうか。

 ・・・旅人としても、物書きとしても、私は西川一三の申し子である。・・・

⇒「朝鮮の独立」をインド等の独立と並列で書いていることや支那への言及がないことが(私と極めて似通ったことを述べているものの)西川の限界であるところ、そんな西川の「申し子」に『秘境西域八年の潜行』を読んだことを契機になって、木村肥佐生の「申し子」にならずじましであったようであることは、筆者の関岡の不幸であった、と、私は思います。(太田)

 戦前、チベットに潜入した日本の諜報員は・・・全員モンゴル人になりすましていた。
 なぜモンゴル人だったのか。
 理由は二つある。・・・
 チンギス・ハーンの孫で、元朝を開いたフビライ・ハーンはチベットの高僧パクパ<(注10)>(尊聖の意)を国師として処遇し、自らもチベット仏教に帰依した。

 (注10)1235~80年。「チベット仏教サキャ派(赤帽派)の座主。・・・1260年にクビライがモンゴル帝国の大ハーンに即位した後、翌1261年にモンゴルの国師に任じられる。チベットはクビライの支配下の元で州と県に分割され、各地区を統治する知事は国師であるパクパの権威に服した。パクパはチベット以外に旧西夏領の行政権、モンゴル帝国全体の仏教行政権を委ねられ、チベット仏教界の他に中国仏教界に対しての指導権がパスパに与えられた。同時に、徴税と労役における僧侶の特権を獲得する。
 ・・・<更に、>クビライはパクパにモンゴル独自の文字の作成を命じ<て>・・・パスパ<・・パクパが>モンゴル語化した<もの・・>文字を完成させ、1269年3月にパスパ文字を国字とする詔が公布された。・・・
 <そして、>1281年にパクパの甥のダルマパーラが帝師とサキャ派の長の地位に就いた。この後元朝の帝師の地位は、サキャ派と周辺の人間によって独占されることになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%AF%E3%83%91

 そしてパクパにチベットの統治権を与えた。
 これがモンゴルとチベットとの深い絆の始まりである。
 <この元が滅びてから暫く経った>1578年、トムト・モンゴルのアルタン・ハーン<(注11)>はラサのデプン寺の第三活仏ソナム・ギャツォを招聘し、「ダライ・ラマ」の称号を与えた<(注12)>。

 (注11)1507~82年。「モンゴルを<ほぼ>再統一した<人物。>・・・1542年に山西省に侵攻した際、男女20万人を虐殺し、さらに200万の家畜を略奪し、8万軒を焼き払うという残酷さを見せている。1550年に北京に迫った際、明軍を北京に籠城させるまでに追いつめたこともある。・・・
 チベット方面に進出した際、仏教に帰依している。のちに青海に迎華寺を建立し、ダライ・ラマ3世を迎えた。このため、モンゴル全土にチベット仏教が広ま<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B3
 (注12)「ダライ・ラマ1世(1391年~1474年)は、初代のダライ・ラマ。略名はゲンドゥン・ドゥプパ。チベット仏教ゲルク派の開祖ツォンカパ大師の直弟子であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%9E1%E4%B8%96 (下の[]内も)
 「ダライ・ラマ2世(・・・1475年~1542年)は・・・法名ゲンドゥン・ギャツォ<。>・・・ただし、生前にダライ・ラマを名乗ったわけではない。後に・・・スーナム・ギャツォ<が、>自らをダライ・ラマ3世とし、[ゲンドゥン・ドゥプパを追諡してダライ・ラマ1世とし<、>]ゲンドゥン・ギャツォを追諡してダライ・ラマ2世とした<もの>。・・・
 伝説によれば、言葉を話せるようになると自分はペマ・ドルジェだと名乗ったという。ペマ・ドルジェとは、・・・後世、ダライ・ラマ1世と定められたゲンドゥントゥプの出生名であった。
 <そして、>ゲンドゥントゥプの生まれ変わりとして認定されたという(ただし、これは後世に生じた伝承であり、史実では、ゲルク派が転生活仏制度を始めたのはゲンドゥントゥプが没してからではなく、ゲンドゥン・ギャツォが没してからだ、という説もある)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%9E2%E4%B8%96
 「ダライ・ラマ3世(1543年~1588年)は、・・・略名はスーナム・ギャツォ<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%9E3%E4%B8%96

 これがダライ・ラマ3世であり、「ダライ」とはもともとはチベット語ではなく「大海」という意味のモンゴル語だったのだ。
 そしてその転生者であるダライ・ラマ4世<(注13)に至っては、何と、>はアルタン・ハーンの<曽>孫、つまりモンゴル人であった。」(54~58)

 (注13)ユンテン・ギャツォ(1589年~1617年)は4世のダライ・ラマ。「ユンテン・ギャツォ」は1592年にダライ・ラマとして即位した時に与えられた名。・・・チベット人以外のダライ・ラマは現在までこの4世だけである」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%9E4%E4%B8%96
 なお、ダライ・ラマ1~4世の時代には、ダライ・ラマがチベットの統治権を持っていたわけではなく、宗教的権威も独占していたわけではない。また、モンゴル主要部族が全部ダライ・ラマの宗教的権威を認めていたわけでもない。このような事情が大きく転換するのが、その次のダライ・ラマ5世の時代だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%9E5%E4%B8%96

⇒チベットとモンゴルとの再度の結びつきが、チベットに神政政治を復活させ、チベットに現在までに至る不幸をもたらした、というのが私の見解です。(太田)

(続く)