太田述正コラム#10891(2019.10.29)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その6)>(2020.1.19公開)
「1642年、オイラート・モンゴルのグシ・ハーン<(注14)>はダライ・ラマ5世<(注15)>をチベットの法王として正式に承認した。・・・
(注14)1582~1654年。「チベット仏教においてゲルク派とカルマ派の抗争が激化すると、それぞれの施主を務めていたモンゴル領主たちの間でも争いが起こった。カルマ派支持者であった<モンゴルの>チャハル部・・・は青海地方に侵攻し、そこにいたゲルク派の<モンゴルの>トメト部,ヨンシエブ部,オルドス部の勢力を滅ぼして青海地方を占領した(1635年)。ここに至ってゲルク派は新たな施主にオイラトを選び、青海の・・・カルマ派<モンゴル勢力>を征討するよう要請した。
1636年、オイラトの・・・<その>八部のひとつ・・・ホシュート部長であったトゥルバイフはこの要請に応じ、・・・オイラト軍を青海に侵攻させた。トゥルバイフは翌年(1637年)までに・・・<同地のモンゴル勢力>を殲滅し、その冬にゲルク派の座主であるダライ・ラマ5世から「テンジン・チューキ・ギャルポ(持教法王、護教法王)」の称号を授かった。「テンジン・チューキ・ギャルポ」はモンゴル語で「シャジンバリクチ・ノミン・ハーン(・・・護教法王)」あるいは「グーシ・ノミン・ハーン(国師法王)」(以後、グーシ・ハーン)と呼ばれたが、これによってモンゴルのチンギス・カン直系ではない者がハーン位を名乗ることとなった。グーシ・ハーンはこの遠征に同行した<オイラートの>ジュンガル部長のホトゴチンに「バートル・ホンタイジ(勇敢なる副王)」の称号を授けて自分の娘と結婚させ、オイラト本国の統治を任せた。
こうして青海を平定したグーシ・ハーンは1640年に<チベットの>ツァン<地方の>軍とその味方であるモンゴルのチャハル部およびハルハ部(これら東モンゴルは同時に東から満州族の侵略を受けていた)を打ち破り、・・・1642年にはツァン地方<そのもの>も平定してチベット全土を統一すると、チベット王の位に就き、ダライ・ラマ5世をチベット仏教界の教主に推戴した(ダライ・ラマ政権の始まり)。
グーシ・ハーンの子孫はその後も青海草原で遊牧しながら、名目上ではあるが代々のチベット王の位に就いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B3
ちなみに、「オイラト人と呼ばれる人々は、15世紀から18世紀にモンゴルと並ぶモンゴル高原の有力部族連合であった、オイラト族連合に属した諸部族の民族である。・・・元来はテュルク系であったと伝わる。・・・モンゴル文字よりも明確に音をしめすトドノムという文字を持っている。・・・彼らは近代中華人民共和国、モンゴル国の一部になった後、モンゴル民族の一員とみなされている<が、>ロシア連邦ではカルムイク人と呼ばれ、独立した民族とされている。・・・
永楽帝の死により明の圧力が弱まったあと、勢力を拡大した<オイラトの>マフムードの子トゴンは1434年に<モンゴルの>ハーンを自らの傀儡に擁立して四十モンゴルを従えた。トゴンおよびその子エセン<(前出)>は・・・戦<いつつ>勢力を拡大し、モンゴル高原のほとんどすべての部族を制するに至った。
トゴンが没すると、エセンは<モンゴルに>以来50年ぶりに訪れた統一を背景に、明に対する侵攻を開始し、1449年に迎撃してきた正統帝の親征軍を撃破して、正統帝を捕虜にした(土木の変)。この戦果は、明側が正統帝の弟景泰帝を即位させて徹底抗戦の構えを見せたため、エセンに十分な利益をもたらさなかったが、これに力を得たエセンは1453年に傀儡のハーンを滅ぼして自らハーンに即位した。
しかし、チンギス・カンの子孫ではない<どころか、モンゴルですらないところの、>エセンの即位にはモンゴルの間ではきわめて不敬とみられて評判が悪く・・・、また同輩中の第一人者であったエセンが君主として君臨しようとしたことは、オイラト部族連合内の諸部族長が募らせていた不満を爆発させた。エセンは即位からわずか1年ばかりのちの1454年に殺害され、オイラトの覇権は挫折した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%88
(注15)ダライ・ラマ5世(1617~82年。ダライ・ラマ:1622~82年。チベット首長:1642~82年)。
「チベットでゲルク派が勝利してすぐにダライ・ラマ5世が大きな権力を握ったわけではない。軍権は当然グーシ・ハーンが握っていたし、グーシ・ハーンはダライ・ラマ5世の側近ソナム・ラプテンを摂政(デシ・・・)に格上げしたので、以後10年ほどは両者の意向も重要であった。・・・
1645年にポタラ<(補陀落)>宮の建設を始めた。ポタラ宮は50年余りを費やしてダライ・ラマ5世没後の1695年に完成した。現在のポタラ宮には観世音菩薩の化身としてダライ・ラマ5世が祀られている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%9E5%E4%B8%96
戦前までは「昭和の時代にも数千人単位のモンゴル人ラマ僧がチベットに留学していた。・・・
モンゴル人ラマ僧<を対象とする、ラサの>・・・僧房の運営経費はそれぞれの出身地からの浄財に依拠していた。
チベットとモンゴルの二国間関係は、しばしば菩提寺と施主の関係に比喩される。・・・
チベットに潜入した日本の諜報員がモンゴル人に偽装したもう一つの理由は、満州をめぐる国策と無縁ではない。
戦前よく使われた「満蒙」という言葉に表されているように、モンゴルについて考えるとき、満州の問題は避けて通ることができない。・・・
満州帝国時代の行政区画図を現在のものと比べてみると、・・・満州建国の翌年の熱河作戦で組み込まれた熱河省も元来は・・・モンゴル人の土地だった・・・。・・・
それは・・・<満州国西部の>興安北省・・・興安南省<を含め、>・・・満州国の面積の3分の1を超える広大な部分を占めていた。・・・
満州国建国から5年経った1937年の・・・人口・・・<は、>・・・漢人が81%・・・満州人が12%・・・モンゴル人は・・・3%に過ぎないものの実数では百万人に近く、42万人いた日本人の2倍以上の数にのぼった。・・・」(58~59、61)
⇒日本が邪馬台国から始まるところの、国内における権威と権力の分離を、チベットとモンゴル/オイラトが国際的に民族間で実現した、といったところでしょうか。
しかし、権力の側が、国際的権威・・欧州の場合で言えばカトリック教会・・でもって自らの立場を強化することは可能でも、権威の側は、自らが若干なりとも権力を保持しないと、権力の担い手の変遷や権力の担い手が気が変った場合に翻弄されたり権威を失ったりする危険性が大きいことから、ダライ・ラマの場合も、チベットにおいて、権力をも掌握するに至った、と見ることができそうです。
思い起こせば、カトリック教会の首長たる法王もまた、教皇領の権力首長でもあり続けたところです。
問題は、マクロ的には、その権力首長がその最大の関心を世俗内へと向けることができないところの、チベットが、教皇領同様、「国力」の相対的衰退を避けられなかったことであり(注16)、ミクロ的には、ダライ・ラマが、モンゴル/オイラトの衰亡もあり、法王とは違って、教会税(注17)に相当する国際的収入源をついに確保することができなかったことであり、このことが、ダライ・ラマが、法王と違って、独自に最低限の軍事力や経済的インフラを整備・維持することを不可能にした点です。(太田)
(注16)「1871年・・・<サンピエトロ寺院の一画を除き、>教皇領は完全に消滅した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E7%9A%87%E9%A0%98
(注17)「ドイツにおいて・・・18・19世紀に教会財産が世俗権力に没収されたり、領主の教会に対する関係が消滅したりしたことで、教会財産ないし領主に頼って維持されてきた教会は、存続のための新たな方策を模索した。カトリック教会はコンコルダートにより、ドイツ福音主義教会(EKD) は国の強制力と共同し、教会員たる住民全てに税を課すこととなった。・・・現代においては、アイスランド、オーストリア、スイス、スウェーデン、デンマーク、ドイツ、フィンランドなどの諸国がこうした制度を保持している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E4%BC%9A%E7%A8%8E
(続く)