太田述正コラム#10895(2019.10.31)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その8)>(2020.1.21公開)
外モンゴル<(注19)>の動きに刺激され、内モンゴルでも独立の機運が高まる。
(注19)「「内」モンゴルと「外」モンゴルの名前の由来は、清朝までさかのぼる。「内」と「外」の区別は、満州人が蒙古を支配した時、先に取り入れたモンゴルを内政治地区、その後に取り入れた砂漠(ゴビ砂漠)の北を外政治地区と呼んだことに由来する。<すなわち、>所謂「内」と「外」の名称は、蒙古人自ら付けたものではない。蒙古人は砂漠の南の蒙古人と地域をObotと呼び、砂漠の北の方をAruと呼んだ。Obotは腹、Aruは背で、身体にちなんで名づけた・・・。現在における内モンゴルのモンゴル人は、内モンゴルを南モンゴルという。外モンゴルを北モンゴルまたはモンゴルと呼び、南北の意味で区別している。」
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=10&ved=2ahUKEwiv_6vy08PlAhWyGKYKHZrSBBsQFjAJegQIBRAC&url=https%3A%2F%2Fkonan-wu.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D1095%26item_no%3D1%26attribute_id%3D22%26file_no%3D1&usg=AOvVaw16q83TN-FWQrGOJoNJfH4A
川島浪速は清朝崩壊の際、粛親王<(注20)(コラム#755、7658、8084、8090、8092、10057、10883)>を北京から脱出させて満州における日本の租借地旅順に匿う一方、カラチン王クンサンノルブ<(注21)>に日本の政府と軍部から引き出した資金と武器を援助して、内モンゴルに親日国家を樹立する計画を立案し、外務省と陸軍参謀本部の承認を取りつけた。
(注20)「粛親王家は<清の>太宗ホンタイジの長子ホーゲに始まり、清朝八大世襲家の筆頭といわれた満州鑲白旗の名家である。初代粛親王ホーゲは清朝建国時期の征戦で活躍したが、異母弟順治帝の摂政となった叔父ドルゴンによって罪に落とされ獄死した。順治帝はドルゴン死後にホーゲの名誉を回復し、廃されていた粛親王の爵位も復活した。第10代粛親王善耆は、清末に立憲君主制による近代化改革を推進し、辛亥革命後に清朝復辟運動を行った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%9B%E8%A6%AA%E7%8E%8B
(注21)1872~1931年。「チンギス・カンの功臣ジェルメの末裔。・・・1899年(光緒25年)、ハラチン<(カラチン)>のジャサク郡王を世襲・・・<日本の協力も得つつ>内モンゴルの教育・産業振興に多大な貢献をなした・・・政治家」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%83%96
⇒川島が「軍部から・・・資金と武器・・・<を>引き出した」というより、川島に「帝国陸軍が資金と武器を提供した」でしょう(コラム#10057)(「注22」も参照。)。
しかしこの計画を潰したのは日英同盟を結んでいた英国だった。
清朝崩壊に乗じて日本が大陸で一挙に勢力を拡大することを懸念した英国大使マクドナルドから圧力を受けた内田康哉外務大臣は計画中止を指示した。
これがいわゆる第一次満蒙独立運動<(注22)>である。
(注22)「「宗社党事件」ともいわれたこの事件の中心となったのは、・・・粛親王を中心とする、宗社党・・・いわば清朝の勤皇党ともいうべき組織・・・と川島浪速をはじめ、馬賊の天鬼将軍こと薄益三(うすきますぞう)ら日本人大陸浪人のグループである。・・・粛親王は、・・・”蒙古勤王軍”を編成して挙兵を準備する。計画では、日本から調達した武器を、満鉄線公主嶺から内蒙古のカラチン王府とパーリン[(パリン)]王府まで秘密裏に輸送することで、蒙古人部隊による武装蜂起をうながすというものであった。武器輸送を行うことになっていたのは、・・・薄益三である。」
https://books.google.co.jp/books?id=NU9WBAAAQBAJ&pg=PT128&lpg=PT128&dq=%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E6%BA%80%E8%92%99%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E9%81%8B%E5%8B%95&source=bl&ots=-ugq7VtNyy&sig=ACfU3U3ZqnMslTUV9z4osD7chbs1KPlKrA&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwiU85Pv5sPlAhW9KqYKHTYWCDU4ChDoATAHegQICBAB#v=onepage&q=%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E6%BA%80%E8%92%99%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E9%81%8B%E5%8B%95&f=false
「<この>計画は外務省の反対と満州軍閥張作霖との対立で挙兵中止となった。」
https://kotobank.jp/word/%E6%BA%80%E8%92%99%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E9%81%8B%E5%8B%95-138159 ([]内も)
ちなみに、薄益三は、「1878年生まれ–1940年没。新潟県阿賀町津川の出身。1907年(明治40年)、朝鮮から満州に渡って、日本人馬賊の草分けである辺見勇彦の知遇を得て、11年(明治44年)に自らも馬賊の頭目になる」(写真も載っている)↓
https://books.google.co.jp/books?id=1FZxDgAAQBAJ&pg=RA2-PT152&lpg=RA2-PT152&dq=%E8%96%84%E7%9B%8A%E4%B8%89&source=bl&ots=JcRXFGzwNQ&sig=ACfU3U0aa8QRHCp9k0xjzoor27Ja3quvKg&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjAwpz-98PlAhVxHKYKHa4fCOA4ChDoATABegQIBxAB#v=onepage&q=%E8%96%84%E7%9B%8A%E4%B8%89&f=false
という人物だ。
「2月21日、外務省は福島<参謀次長>を通じて川島に対し、粛親王を北京へもどすか、あるいは他の場所へ移動させることを要請した。・・・<そのため、>挙事はあきらめたものの、武器・弾薬の手渡しについては・・・福島次長も黙認していた。・・・<そして、>多賀<宗之(むねゆき)>少佐や松井<清助>大尉は薄益三に会見して武器等の運搬を依頼して協力を得た。・・・<しかし、>こうした状況を知って驚いた日本政府は参謀本部を通じて川島を<日本に>呼びもどし・・・中止<を言い渡し、>・・・内田外相<も川島にそう言い聞かせた。>・・・ところが、すでに6月上旬輸送隊は、鄭家屯(ていかとん)の北部で中国側の攻撃を受け、同行した松井清助大尉も重傷するという事件が起きていた。天鬼馬賊隊も27人のうち13人が戦死、同隊にいた支援の中国人など39人も戦死した。そのため武器はその場で焼却され、<武器・弾薬の運び入れもまた>失敗に帰することになった。・・・大島健一参謀次長(福島の後任)<や>・・・岡<市之助陸軍>次官<は、東京から、電報で事態の糊塗、沈静化に奔走した。>」
https://books.google.co.jp/books?id=dsIqBQAAQBAJ&pg=PT58&lpg=PT58&dq=%E8%96%84%E7%9B%8A%E4%B8%89&source=bl&ots=dH-5LMrVc7&sig=ACfU3U0m-ecfqqsbZKNI7pZp9KGkE-jwFg&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjAwpz-98PlAhVxHKYKHa4fCOA4ChDoATAOegQICRAB#v=onepage&q=%E8%96%84%E7%9B%8A%E4%B8%89&f=false
ちなみに、多賀宗之(1872~1935年)は、「東京出身。陸軍士官学校卒。・・・<明治>35年から保定で袁世凱の軍事顧問をつとめる。44年歩兵第四十八連隊大隊長,同年参謀本部付で北京に駐在。大正6年江蘇省督軍顧問。陸軍少将。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%9A%E8%B3%80%E5%AE%97%E4%B9%8B-1087945
⇒この頃は、まだ、帝国陸軍と外務省の間にかなりの信頼関係があった、というわけです。
なお、清朝下で、満州貴族、モンゴル貴族、チベット「貴族」の間に一体感が醸成されていたことを改めて感じさせられます。(太田)
(続く)