太田述正コラム#10901(2019.11.3)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その11)>(2020.1.24公開)
「・・・1932年3月2日、・・・満州国が建国され、二年後には帝政に移行して満州帝国を国号となし、執政溥儀は登極して康徳と改元した。
国旗として布告された五色旗は満・漢・蒙・日・鮮の五族協和という新国家の理念を表象していた。
五族のなかでもとりわけモンゴル人に対しては特別な配慮が払われた。
かつてホロンバイルと呼ばれた興安北省<(注26)>は「蒙古特殊行政地域」に指定され、漢人の入植が禁止され、チベット仏教の信仰が保護されたほか、多くのモンゴル人が官吏として積極的に登用された。
(注26)1934~1944年の間存続。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E5%AE%89%E7%B7%8F%E7%9C%81
⇒下掲には、「東部内蒙古とホロンブイル<(ホロンバイル)>地方には、満州国の特殊行政区域として興安省が設置された」とあるので、関岡の記述とは微妙に異なるし、「漢人が入植して行政区分としては県になった地域と、モンゴル人の遊牧地である蒙地の境界はすでに入り組んで<いたが>、日系官吏がこれを調査して確定<した>」ともある
https://books.google.co.jp/books?id=HahFBAAAQBAJ&pg=PT143&lpg=PT143&dq=%E8%92%99%E5%8F%A4%E7%89%B9%E6%AE%8A%E8%A1%8C%E6%94%BF%E5%9C%B0%E5%9F%9F&source=bl&ots=yVrYi94o0n&sig=ACfU3U3i-xR-foIcEGWinLWJB0hYY1pYKQ&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjVobvmhsvlAhWCxYsBHZ-bBrgQ6AEwA3oECAgQAQ#v=onepage&q=%E8%92%99%E5%8F%A4%E7%89%B9%E6%AE%8A%E8%A1%8C%E6%94%BF%E5%9C%B0%E5%9F%9F&f=false
ことからも、少なくとも、関岡の記述は端折り過ぎであって、読者に誤解を呼びます。(太田)
満州国のモンゴル人政策について、モンゴル学の専門家、田中克彦<(注27)>氏は『ノモンハン戦争 モンゴルと満州国』(岩波新書、2009年)で「民族問題にうとい日本が国外で行った民族政策の中ではかなりできのいい方策だった」と評価している。
(注27)1934年~。東京外大(モンゴル語)卒、一橋大博士。ボン大留学、東京外大、岡山大、一橋大で教官を務め、一橋大名誉教授、その後、中京大教授。「はじめモンゴルの社会主義革命を支持する立場からの著述を行っていたが、その後左翼的立場からする言語論を多く執筆、・・・ 『チョムスキー』では、生成文法の創始者チョムスキーを英語中心主義と誤解して批判したが、これは田中の生成文法に対する無知によるもので、言語学者からは批判されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%85%8B%E5%BD%A6
田中氏は「満州国は日本の傀儡国家だった」とする立場だが、モンゴル人民共和国もソ連の傀儡国家だったという点では同罪で、しかも独裁政権の圧政に苦しむ外モンゴルのモンゴル人から見れば満州国内のモンゴル人たちの境遇はまだましどころか、文字通りの「王道楽土」に見えたはずだと指摘している。・・・
⇒関岡が正確に田中の論を紹介しているとしてですが、田中の経歴や彼の本の出版社が岩波であることを勘案すれば、トロッキストによるスターリニズム批判史観的なものでしかない感が否めず、そうだとすれば、関岡にとって都合のよい箇所を切り取った形で紹介したわけであり、適切とは言えません。(太田)
<また、>満蒙史の専門家、森久男氏<(注28)の>・・・『日本陸軍と内蒙工作』(講談社、2009年)<で、>・・・「中国侵略計画のようにみえる種々の施策は、いずれも対ソ防衛体制を構築するための手段として位置づけられている」という事実を歪曲することなく直視するという研究姿勢を貫いている。
(注28)愛知大学経済学部教授(中国経済史)を経て、現在、同大名誉教授・同大中部地方産業研究所客員所員。
http://iccs.aichi-u.ac.jp/member/entry-2229.html
http://www.chusanken.jp/member.php
https://researchmap.jp/andamf/
⇒この本は、コラム#3991で私が紹介し、また、シリーズ書評の対象にしたことがあります(コラム#4002、4004、4006、4008、4010)が、その時にも余り出来が良くない本だと指摘させていただいているところ、依然、著者の森の経歴がネットでは殆ど分からずじまいでした。(太田)
本書もそれを全面的に支持する立場である。
⇒森のこの本が出た当時の私は、横井小楠コンセンサスの存在にしか気付いておらず、帝国陸軍は、このコンセンサスの実行過程で大失敗をしでかした、という認識だったので、森を批判する資格はありませんが、現在の私の到達点・・島津斉彬コンセンサスの存在を日本の幕末以降の歴史の基軸に据える・・という「特権的」地平から振り返れば、当時の、私も森も、そして、現在の関岡も、何と蒙昧なことよ、と嘆息せざるをえません。(太田)
(続く)