太田述正コラム#10905(2019.11.5)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その13)>(2020.1.26公開)
「・・・松室孝良が分離独立を構想していた頃の内モンゴルは、南京国民政府によって東西に分割され、東部が察哈爾(チャハル)省(チャハル盟とシリンゴル盟)、西部が綏遠省(ウランチャブ盟、バインダラ盟、イクジョウ盟)と中国式の省制が導入され、察哈爾省は宋哲元<(注29)(コラム#6260、8366、8628、10243)>、綏遠省は傅作義<(注30)(コラム#4006、4008、8088)>という国民党系の漢人軍閥に支配されていた。
(注29)1885~1940年。「1908年(光緒34年)、武衛右軍随営武備学堂に入学する。卒業後は馮玉祥率いる<軍に入る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E5%93%B2%E5%85%83
「1884年(光緒10年)、淮軍の葉志超が率いる正定練軍が山海関に駐屯した際に、随営武備学堂が設立され<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E7%8E%89
「淮軍(わいぐん)は、清朝の重臣李鴻章が同治元年(1862年)に編成した地方軍である。湘軍と並べて湘淮と称される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%AE%E8%BB%8D
(注30)1895~1974年。「1910年(宣統2年)、太原陸軍小学に入学した。太原で辛亥革命に呼応した蜂起が発生した際には、学生軍として革命に参加した。
1912年(民国元年)、北京の清河鎮第1陸軍中学に転校する。1915年(民国4年)、保定陸軍軍官学校第5期歩兵科に入学した。同学校での成績は校内第1位であった。1918年(民国7年)に卒業し、山西に戻る。閻錫山率いる晋軍(山西軍)に加入し、軍歴を重ねていった。・・・
1949年(民国38年)1月、傅作義は<人民解放軍に>北平を無血開城している。・・・
中華人民共和国成立後は、中央人民政府委員、軍事委員会委員、水利部部長、全国人民代表大会代表、国防委員会副主席、中国人民政治協商会議全国常務委員、同副主席などを歴任した。特に水利部長の地位には、建国直後から死去直前まで25年間在任している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%85%E4%BD%9C%E7%BE%A9
「前身は清朝の北洋軍閥の陸軍速成学堂、陸軍軍官学堂である。袁世凱が中華民国総統在任中開設された。・・・1920年、給料未払いから校内で暴動が起こり放火された。1923年8月、廃校となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%AE%9A%E9%99%B8%E8%BB%8D%E8%BB%8D%E5%AE%98%E5%AD%A6%E6%A0%A1
⇒宋哲元や傅作義のような、大活躍した中国国民党系の軍人達でさえ、普通、ウィキペディアにおいて、付き物であるところの、出身地や両親のこと等の記述が省かれていることからも、支那で清末に生まれて軍人になった人々のうさんくささが窺えます。
蒋介石は例外に属し、ウィキペディアにそれらが記述されてはいる上、かなり充実した初等中等教育を受けた後、傅作義も学んだ、保定陸軍軍官学校入校を軍人になる第一歩とし、翌年、日本留学を果たしています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%8B%E4%BB%8B%E7%9F%B3 (太田)
そのなかで台頭してきたモンゴル自治運動の指導者が徳王<(注31)(コラム#4006、4008、8088、8092、8096、8100、8102、8104、10899)>、ドムチュクドンロブ王である・・・。
(注31)1902~66年。「ソニド右旗(現在の内モンゴル自治区シリンゴル盟)にチンギス・ハーンの30代目の子孫として生まれる。1908年に扎薩克(公王、執政官)の職を継ぎ、北京政府からも認められる。1919年に執掌旗政(県知事)になったのを手始めに地方官職を歴任する一方で、内蒙古自治運動に関わる。・・・
1950年にモンゴル人民共和国の独裁者・・・チョイバルサンは外モンゴルをゴンチギン・ブムチェンド、内モンゴルをデムチュクドンロブ<(徳王)>に任せて内外モンゴル統一を構想していたことからその誘いに応じ、・・・モンゴル人民共和国に亡命する。・・・当初は徳王はモンゴル人民共和国当局から監視されながらも歓迎を受けてソ連とモンゴル人民共和国に協力を要請するも、利用価値がないと判断したモンゴル人民共和国当局によって逮捕されて中華人民共和国に引き渡され、戦犯として禁固刑と思想改造を受けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%A0%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%AF%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%96
⇒「注31」から分かるように、中国共産党による、逮捕後の徳王の扱いは、溥儀の扱い(コラム#省略)と瓜二つの寛大なものであったわけです。
考えてみれば当たり前であり、毛沢東も、溥儀も徳王も、日本、具体的には帝国陸軍、と協力して、中国国民党(及びソ連)と戦ったところの、「戦友」同士だったのですからね。
もっとも、そんなことは、溥儀も徳王もあずかり知らない話ですが・・。(太田)
ちなみに盟(モンゴル語では「アイマク」)、旗(「ホショー」)とは清朝が導入したモンゴル独特の地方区分で、各旗に世襲の王公がおり、いくつかの旗を統括して盟が形成され、諸王の中から盟長、副盟長が推輓される仕組みになっていた。・・・」(77~78)
(続く)