太田述正コラム#10909(2019.11.7)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その15)>(2020.1.28公開)

 「・・・A・M・ナイル<(注34)>は南インドに生まれ、戦前京都帝国大学に留学したインド独立運動家である。・・・京都帝大卒業後、インド独立運動を支援していた拓殖大学教授、大川周明の斡旋で満州に渡り、新京では大川の従兄の本間有三(ゆうぞう)、大連では大川の実弟、大川周三(しゅうぞう)の家に居候しながら、英国の植民地支配に反対する宣伝活動を展開したという。

 (注34)1905~90年。「<英>領インド帝国のトラヴァンコール藩王国(現在のインド南部のケーララ州)・・・で、裕福なクシャトリヤ階級の母とバラモン階級の父のもと、・・・生まれた。
 <英国>の植民地支配下に置かれた祖国の現状を憂慮し、高校在学中からインド独立運動やカースト差別批判運動などに参加し、<英>植民地当局から要注意人物として監視された。
 1928年、かつて北海道帝国大学に留学していた5歳上の兄の熱心なすすめにより日本に留学することを決意し、京都帝国大学工学部に入学、土木工学を学ぶ。来日早々、東京府を拠点に活動していたインド独立運動家のラース・ビハーリー・ボースを訪ねている。その後、勉学の傍ら、日本におけるインド独立運動に精を注ぐ。
 1932年に京都帝国大学を卒業、栗本鐵工所へ入社するも、インド独立運動家としての講演活動などが多忙となり退社。その後、ビハーリー・ボースの腹心となり、日本政府の上層部や荒木貞夫や田中隆吉などの軍上層部、頭山満や大川周明などのアジア独立主義者らと関係を結ぶ。これらの活動を受けて駐日<英>大使館より要注意人物としてマークされ、インドへの帰国は事実上不可能となる。
 かつてインド臨時総督を務め、過酷な植民地政策を進めた・・・リットン率いる「リットン調査団」に欺瞞を感じ、同調査団の満州国派遣に対する抗議活動などを行っていた縁から、満州国協和会の創設メンバーの1人で京都大学の同窓生の長尾郡太からの誘いを受けて、日本の租借地の大連で開催されるアジア会議の開催に奔走する。その後、1934年に開催された同会議に出席する。
 その後も満州国と日本を行き来し、満州国への渡航後に習得した<漢>語を駆使して、モンゴルからの羊毛のイギリスへの輸出停止や、インドの独立派の新聞記者と・・・溥儀の会見を成功させるなど、様々な形のインド独立運動及び反英工作を行い、その傍ら満州建国大学の客員教授などもつとめている。・・・
 1942年には、ラース・ビハーリー・ボースを首班とする「インド独立連盟」の設立に貢献し、同連盟の指導者の1人となった。さらに、英印軍の捕虜のうち志願したインド人によって、<英>軍を放逐した日本軍の占領下となったシンガポールに作られた「インド国民軍」の設立に関わった。・・・
 1943年7月4日に昭南(シンガポール)におけるインド独立連盟総会において、ビハーリー・ボース率いるインド独立連盟総裁とインド国民軍の指揮権を、独立連盟幹部のナイルの提唱により、総会に先立ち亡命先のドイツから昭南へ来たスバス・チャンドラ・ボースに移譲している。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/A.M.%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%AB
https://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/GALLERY/show_image.html?id=52361228&no=7 ←写真
https://chefgohan.gnavi.co.jp/chefindex/detail/788 ←お孫さん(三代目。シェフ)の写真

⇒「注34」内に出て来る長尾郡太は、「京都帝国大学の右翼団体猶興学会の幹事長、満州国協和会<(注36)>のメンバー」だった人物ですが、彼が、知人の元東大教養学部教授(法哲学)の長尾龍一氏の御父上であることや、旧満州国斉斉哈爾市生まれである
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B0%BE%E9%BE%8D%E4%B8%80
ことを知って驚きました。

 (注36)「満州国における官民一体の国民教化組織。後の日本の大政翼賛会などの新体制運動に影響を与えたとされる。
 満州事変以後、中華民国からの分離独立や王道政治に基づく新国家建設の理念を説いた于沖漢らの自治指導部が協和会の起源である。満州国建国に至り、自治指導部は解散したが、このうち合流していた大雄峯会(主に資政局に流れた)の中野琥逸、満州青年連盟の山口重次、<小澤征爾の父の>小澤開作、于沖漢の子于静遠、阮振鐸らが奉天忠霊塔前で「満州国協和党」を結成、軍司令部の石原莞爾と板垣征四郎から設立準備金2万円が拠出され、さらに結党宣言と綱領を監督した板垣・石原のブレーン宮崎正義の「ソ連や中国国民党と同じく、政府が補助金を出すべきだ」との提案により年額120万円が国庫から支弁されることになり、協和党という名称に反対した愛新覚羅溥儀の意向もあって溥儀を名誉総裁とする満州国協和会に改組された。
 石原莞爾は溥儀と関東軍に代わる満州国の「将来の主権者」として協和会による一党独裁制(一国一党)を公然と目指していた。しかし、協和党から協和会への改組当初より小磯國昭らが山口や小澤ら旧協和党の古参を排除して関東軍と日系官吏による「内面指導」を強化して教化団体化を図り、特に協和会中央本部の甘粕正彦や古海忠之らと協和会東京事務所を拠点とする石原一派の対立からはその存在意義は変質して日<支>戦争を機に国家総動員体制を担いはじめた。1937年7月に協和会青年訓練所、1937年8月に協和義勇奉公隊、1938年6月に協和青少年団を創設、1940年からは分会と連携して全住民や各家庭に浸透させる隣組を設置、1941年4月に各県長や各省長が地方の協和会の本部長を兼任することになり、政府行政と完全に一体化した(これは道府県支部長を道府県知事が兼任した大政翼賛会と同様である)。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD%E5%8D%94%E5%92%8C%E4%BC%9A

 なお、日本型経済体制だけでなく、日本型政治体制もまた、満州でまず試行されたのですね。(太田)

 ナイルは満州から内モンゴルへ出張した際、東トルキスタンやチベットから内モンゴルを通って天津に至る羊毛の隊商ルートが存在し、羊毛が最終的に英国へ向けて出荷されていることを察知する。
 ナイルはもしこの交易を妨害すれば、英国の基幹産業を担い、経済帝国主義の奥の院とも言われたランカシャーの繊維業界に打撃を与えることができると考え、大川周明の盟友であった関東軍参謀復調の板垣征四郎少将に自ら工作を志願したのだ。・・・
 東京の参謀本部の許可を得てナイルは再び内モンゴルに飛び、徳王と会見、各旗の王公宛の紹介状を書いてもらい、西へ向かった。

⇒この時の参謀次長・・閑院宮参謀総長の下では実質的な参謀総長・・は杉山元であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2%E7%B7%8F%E7%9B%A3
これは、杉山→大川/板垣→ナイル、という「指揮系統」で行われた諜報作戦であった、と見てよいのではないでしょうか。
 なお、満州国は、島津斉彬コンセンサスの中核たるアジア主義の広報宣伝のための最大の海外拠点でもあったのだな、と、認識を新たにしました。(太田)
 
(続く)