太田述正コラム#10911(2019.11.8)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その16)>(2020.1.29公開)
オチナ旗にたどりつき、・・・チベット仏教の活仏になりすまして更に西方の東トルキスタンを目指した。
東トルキスタンこそ羊毛の一大産地であり、しかもその隊商ルートはヒマラヤを越え、ナイルの祖国インドにも通じていたからだ。
ナイルは東トルキスタンに入域したが、山賊に捕まって所持金を巻き上げられたため、オチナ旗に引き返さざるを得なくなってしまう。
その後、ナイルは東に転じて綏遠省の包頭に入り、そこが羊毛の一大集散地であること、交易を牛耳っているのが回民の大商人たちであることなどを調査して満州へ帰還した。
ナイルは東京に出頭し、包頭での羊毛買い占め工作を具申した。
満州帝国陸軍少将の待遇を与えられていたというナイルは、陸軍参謀本部や兼松など複数の商社の協力を取りつけて大陸に戻り、今度はイスラームのムッラー(聖職者)になりすまして再び包頭を訪れ、対英経済攪乱工作を展開した。・・・
南インドのケララ州出身のインド人が内モンゴルを歩いていればさぞかし目立ったと思うが、よく拘束されなかったものだ。・・・
⇒恐らくは話は逆であって、ナイルが絶対に日本人と思われることがない容貌であったことはもとよりですが、彼がインド南部出身とはいえ、上級カースト出身であったことや、とりわけ若い時の写真
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/h427391161
を見ると、肌の色こそよく分かりませんが、オーストラロイド系ではなくアーリア系(コーカサス系)であると思われること、かつまた、チベットがチベット仏教の成り立ち
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E4%BB%8F%E6%95%99
からも分かるようにインド北部と密接な交流を維持し続けたこと、かつ、そのチベットが蒙古とも密接な交流を維持し続けたこと(既述)から、ナイルは活仏としても、(そして、北インドには回教徒も多かった(典拠省略)ことから、)ムッラーとしても、全く「目立」つことなどなかった、と思われます。(太田)
関東軍は「隊蒙(西北)施策要領」に基づいて、綏遠省の百霊廟、寧夏省のアラシャンに続いて、1936年8月に内モンゴル西部の最果ての地オチナに特務機関を設置することに成功した。
関東軍が辺疆の砂漠地帯に点々と特務機関のネットワークを構築していったのは、無線通信機と航空機用の給油基地を設置して、航空路を開拓して対ソ制空権を得るためであった。
いざ日ソ開戦となった場合には、シベリア鉄道を爆撃することが可能になる。
オチナは人口希少な砂漠のなかの小さな都邑に過ぎなかったが、飛行上の目印となる仏塔があった。
これら一連の工作を完了し、関東軍参謀長に昇進していた板垣征四郎中将は航空機で綏遠省各地を視察して回り、寧夏省のアラシャンにも足を延ばし、壮大な居城でダリジャヤ王(漢語名「達王」)と会見した。
アラシャン王家はチンギス・ハーンの弟ハサルの直系という名門<(注37)>の血筋で、モンゴルきっての大富豪でもあった。
(注37)「モンゴル帝国のもとでは、チンギス・カンとその3人の同母弟ジョチ・カサル<(ハサル)>、カチウン、テムゲ・オッチギンの子孫は「黄金の氏族(アルタン・ウルク)」と称され、一般の遊牧民や遊牧貴族の上に君臨する君主の血筋とみなされるようになった。そしてチンギス兄弟以外のキヤト氏族の人々と「黄金の氏族」を区別するため、彼らは単に「ボルジギン」を氏族名として称した。ここに、かつてはボドンチャルの子孫全体の氏族名であったボルジギンは、モンゴル帝国のカアン(ハーン、皇帝)家に固有の氏族名として使われ始める。
チンギス・カンの築いたモンゴル帝国は、<支那>からロシア、中東にまで勢力を拡大し、世界史上空前の大帝国に成長した。このためボルジギン氏の子孫たちは帝国の最高君主であるカアン(ハーン)位を継承した元朝を始め、チャガタイ・ウルス、ジョチ・ウルス、フレグ・ウルス(イルハン朝)など大小さまざまな王国を形成し、その王家として栄えた。
これらの諸政権は14世紀には次第に衰退して解体したり再編されたりしたが、その後もモンゴル帝国の旧支配地では、ボルジギン氏であるチンギス・カンの男系子孫しかカアン(ハーン)になれないという慣習が根強く残った。これをチンギス統原理という。
モンゴル高原では、元が明に追われて高原に退いた後、ボルジギン氏の王家は一時的に衰退したが、16世紀初頭にチンギス・カンの末裔ダヤン・ハーンがモンゴル高原を再統一することによって息を吹き返す。その後のモンゴルではダヤン・ハーンの子孫たちが分家を繰り返しつつ各部族を支配する王侯として定着し、17世紀以降の清の支配のもとでも彼らはその地位を保ち、ボルジギン氏は孝荘文皇后などを通じて皇帝と血の繋がりもできた。
20世紀においても、ボルジギン氏はデムチュクドンロブ(徳王)、ダリジャヤ(達王)など、政治的に重要な役割を果たした人物を輩出している。」
http://wpedia.mobile.goo.ne.jp/wiki/%83%7B%83%8B%83W%83M%83%93%8E%81/3/
その財源は領内の塩湖から算出される無尽蔵の岩塩と天然ソーダだった。・・・
<日支戦争中>ダリジャヤ王が・・・中国国民党に警戒され<て>・・・軟禁されたのは、王妃が・・・溥儀の従妹だったからだという。・・・
共産党政権成立後・・・、一時は自治区政府副主席という名誉職を与えられたが、文化大革命中の1968年、批判闘争集会で王妃ともども紅衛兵に撲殺された。・・・」(80~86)
⇒将来、NHK大河ドラマで、この時代が何度も取り上げられることになる、と私は信じていますが、その材料は尽きることがない、と、力説しておきましょう。(太田)
(続く)