太田述正コラム#10923(2019.11.14)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その22)>(2020.2.4公開)
「・・・中華人民共和国領内のイスラーム系諸民族のなかで、最多の人口を誇るのは「回族」<(注48)>とされている。
(注48)「回族のコミュニティには普通、モスク(<漢>語では「清真寺」と表記)があり、聖者廟を有する場合もある。・・・姓名は漢族と異ならないが、預言者ムハンマドの名から取った「馬」姓が多く見られるともいう。明代にアフリカまで航海したことでしられる鄭和もムスリムであり、本姓を馬といった。他には元の詩人・魯至道に由来する「白」姓、元の政治家・納速剌丁に由来する「丁」姓も多い。特有な姓としては「哈」「海」「撒」などが挙げられる。・・・モンゴル帝国時代のムスリムの色目人官僚サイイド・アジャッル(賽典赤)は雲南省を統治したため、雲南省にはイスラム教が普及し、言語的・形質的に漢民族と同化した回族が現在も数多く住んでおり、彼らの多くはサイイド・アジャッルの後裔を称する。明代の大航海者鄭和(馬三保)、およびその父馬哈只もその後裔と称した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9E%E6%97%8F
サイイド・アジャッル(1211~79年)は、「預言者ムハンマドの後裔を称するサイイドの名家の出身で、中央アジアの中心都市のひとつブハラ(現ウズベキスタン)に生まれ育った。チンギス・ハーンの中央アジア遠征のとき投降してハーンの側近に仕え・・・<、後に、支那>西部の行政の最高責任者となり、長江の上流を抑えてクビライによる南宋の併合を後方から支援した。・・・1274年には手腕を買われて<旧大理国>の統治を委ねられて雲南行省の平章政事を拝命<し、>・・・雲南の開発に力を尽くし<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%AB
2000年の人口調査によれば、ウィグル人は約840万人にたいし、「回族」は約980万人に上り、ウィグル人を上回る人口規模となっている。・・・
回民の起源には諸説あるが、唐代に交易を目的として渡来したアラビア人やペルシャ人の子孫ではないかと推定されている。
往古アラビア、ペルシャから海路で渡来した者は広州、泉州、杭州など中国東南の沿海部に、シルクロードを通って陸路で渡来した者は都の長安など西北の内陸部に居住した。
そのまま定着し、幾世代もの漢人との通婚によって同化が進み、アラビア系、ペルシャ系としての人種的、言語的特質を滅却したのではないかというのが現在の定説である。・・・
中国の五大民族自治区の一つに回民を中心とする寧夏回<族>自治区<(注49)>があるが、回民はこの区域のなかにだけ居住しているわけではない。
(注49)「自治区北部は内蒙古自治区、南部は甘粛省と接する。東部の一部は陝西省と接している。・・・回族が自治区人口の<五>分の一を占め、残りは殆どが漢族である。・・・宋代には・・・<ここを中心に>西夏王国<が>建国<され>た。西夏の都は現・<自治区首府の>銀川に在り、シルクロードを押さえて強盛を誇るもモンゴル帝国に侵攻され、チンギス・ハーンは西夏遠征中に・・・死去した。<その後、>元代に・・・西方民族が流入してイスラム化が進行した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%A7%E5%A4%8F%E5%9B%9E%E6%97%8F%E8%87%AA%E6%B2%BB%E5%8C%BA
むしろ域外に居住する人口の方がはるかに多く、しかもその分布は中国全土に及んでいる。・・・
日露戦役の終結から4年後の1909年、ロシア出身のトルコ系ムスリムで世界的に著名なイスラーム運動の活動家だったアブデュルレシト・イブラヒム<(注50)>が初来日し・・・伊藤博文、大隈重信、東郷平八郎、大山巌など・・・と会談を重ねている・・・。
(注50)1857~1944」年。「シベリアのトボリスク県タラ郡にて、ブハラ系タタール人のウラマーの家に生まれた。カザンのマドラサで学んだ後、・・・1879年8月にメッカ、メディナに留学し、その後オスマン帝国の首都イスタンブールに渡った。
1885年にロシアに帰国し、故郷のタラ郡でマドラサの教師を務めた。1892年には、その学識を買われてオレンブルク・ムスリム宗務局のカーディー職(イスラム法の裁判官)に任命されたが、1894年には、ロシア政府による抑圧的な対ムスリム政策に反発し、宗務局の保守的な風潮を批判してカーディー職を辞任した。その後、オスマン帝国のイスタンブールに移住し、ロシア帝政を批判する論説活動を展開した。
日露戦争や1905年のロシア第一革命によりロシア政府が弱体化したのを機に、イブラヒムはロシアに戻り、ムスリム民族運動のために首都ペテルブルクにてタタール語紙『ウルフェト Ülfet』の刊行を行い、ロシアのムスリム住民の政治参加の必要性を訴えた。また、・・・ロシア・ムスリム連盟の設立の際にも中心的役割を果たした。しかし、1906年にストルイピン政権が、非ロシア人の政治活動への取り締まりを強めると、イブラヒムも国外への脱出を余儀なくされ<た>。・・・<そして、>約半年間滞在した・・・日本に対して一貫して肯定的な評価を与えた。これはその後のイスラーム世界での日本観に大きな影響を与えたといわれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%83%AC%E3%82%B7%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%92%E3%83%A0
大正時代に入ると、ロシア革命を逃れて中央アジアのイスラーム諸民族がシベリア、満州経由で続々と日本に亡命してくるようになる。
なかでもバシキール人<(注51)>の指導者ムハンマド・アブドルハイ・クルバンガリー<(注52)>がよく知られていた。
(注51)「<現在、>主としてロシア連邦のバシコルトスタン共和国に居住するテュルク系民族。・・・1989年のデータで、ソ連領内に144万9千人が居住していた。人種は、モンゴロイドをベースとするもコーカソイドの血もかなり混じっている。・・・初めフィン・ウゴル系であるハンガリー語を使用していたバシキール人は7世紀以降、東からやってきたオグズ、ペチェネグ、ヴォルガ・ブルガール、キプチャクなどのテュルク系民族の影響を受けて次第にテュルク化していき、13世紀のジョチ・ウルス支配下で完全にテュルク系に変化した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%B7%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BA%BA
(注52)1889~1972年。「ロシア帝国のオレンブルク県チェリャビンスク郡に生まれ・・・父と共に、<イスラーム>宗教活動に携わった。<ロシア革命後、白軍を支持。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%96%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%BC
<彼は、>陸軍や黒龍会などの民間結社の支援を得て東京回教団を設立し、日本を拠点としてイスラーム運動を展開した人物である。・・・」(118、120、122~123)
⇒イスラム教徒取り込み戦略は、島津斉彬コンセンサス信奉者(アジア主義者)による、インドネシア・マライ・インド亜大陸の植民地解放追求、を念頭に置いただけではなく、横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者による対露抑止/攻略、の側面もあった、ということに、迂闊にも、今まで思い至りませんでした。
イスラム研究者として出発した大川周明についても、新たな光を照射する必要があるかもしれませんね。(太田)
(続く)