太田述正コラム#10925(2019.11.15)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その23)>(2020.2.5公開)

 「・・・アブデュルレシト・イブラヒム<は>1933年に24年ぶりに再来日した。
 今回の来日は、・・・当時在トルコ大使館付陸軍武官だった神田正種<(注53)>(まさたね)中佐の工作によるものだった。

 (注53)1890~1983年。幼年学校、陸士、陸大。「参謀本部付勤務、参謀本部員(ロシア班)、浦塩派遣軍司令部付、関東軍司令部付(南満州鉄道ハルピン事務所)、歩兵第39連隊大隊長、朝鮮軍参謀、陸大専攻学生、トルコ大使館付武官、参謀本部員(ロシア班長)兼陸大教官、参謀本部課長、歩兵第45連隊長、教育総監部第1課長などを経て、1938年7月、陸軍少将に進級。教育総監部第1部長、参謀本部総務部長などを歴任し、1941年3月、陸軍中将となった。1941年4月1日から1945年4月1日まで、第6師団長・・・<を務め、>ブーゲンビル島の戦いに従軍。1945年4月、第17軍司令官となり、終戦」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%94%B0%E6%AD%A3%E7%A8%AE

 神田は満州事変のときの朝鮮軍参謀で、司令官の林銑十郎中将に越境を進言したことで知られている・・・。・・・
 盧溝橋事件から5ヶ月後に・・・外務省の調査部第三課に蒙回班が設置された。
 「蒙回」すなわちモンゴルとイスラームがセットでとらえられていることが注目される。
 満蒙から蒙回へと、陸軍が矢継ぎ早に進める内蒙工作及び回民工作に、外務省もようやく対応し始めたわけである。・・・
 <その>翌年1938年は、戦前日本における「イスラーム元年」とも言われる画期的な年であった。
 特に5月に重要な出来事が三件起きている。
 まず、帝都東京初のモスクである東京回教礼拝堂(現在の東京ジャーミィ)<(注54)>が代々木上原に開堂したことが特筆される。・・・

 (注54)「日本人有志らから10万円(当時)の寄付が集ったことから・・・渋谷区富ヶ谷・・・にサラセン式ドームを持つ・・・木造・・・礼拝堂が建設され<、>・・・落成式には頭山満、松井石根、山本英輔ら、陸海軍<等の>有力者が参列した。・・・
 老朽化のため1984年(昭和59年)に閉鎖され、1986年(昭和61年)に取り壊された。東京トルコ人協会は、モスクの再建にあたって、跡地をトルコ政府に寄付し、再建をトルコ政府に委託した。
 トルコでは、同国の宗教行政を主務するトルコ共和国宗務庁が中心となって「東京ジャーミイ建設基金」を設立、トルコ全土から多額の寄付を募ったほか、モスクの建築資材や、内装・外装の仕上げを手がける職人を派遣した。
 1998年(平成10年)6月30日に着工した東京ジャーミイは、2年後に竣工、2000年(平成12年)6月30日に開堂した。以来、東京ジャーミイ・トルコ文化センターとして、モスクとしての活動とともにイスラム文化・トルコ文化を伝えるセンターの役割も果たしている。・・・
 毎日の礼拝への参加者は5~10人程度、金曜日の合同礼拝への参加者は350-400人程度・・・<ちなみに、>「ジャーミイ」とは、トルコ語では金曜礼拝を含む1日5回の礼拝が行われる大規模なモスクをあらわ<す。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%82%A4

⇒戦前の回教礼拝堂が日本人達の寄付で、その後身たる戦後の東京ジャーミィがトルコ人達の寄付で、それぞれ建設されたことの背景として、戦後の日本における弥生性の減衰と縄文性の矮小化によるところの、アジア主義の消滅/米国の属国化、があると思いますね。
 それにしても、私自身、(イスラム圏で幼少期を過ごしたというのに、)東京にもモスクが一つくらいはあるだろう、程度の認識しか、これまで持っていなかったことに反省しきりです。
 なお、この際と思ってヒンドゥー教の寺院を捜してみたら、「真正」ヒンドゥー教ではないけれど、ヒンドゥー教系新興宗教のナレ・クリシュナ・・スタンフォード大留学中に現地で邂逅・・の寺院が東京、大阪等にある
https://iskconosaka.jimdo.com/%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0/%E5%B9%B3%E6%88%9027%E5%B9%B4%E3%81%AE%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%96%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%80%E3%81%AE%E6%80%9D%E3%81%84%E5%87%BA%E3%81%A8iskconjapan%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E6%9C%AC%E9%85%8D%E3%82%8A%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%AF%BA%E9%99%A2%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/
https://iskconosaka.jimdo.com/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%8A%E6%84%8F%E8%AD%98%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%8D%94%E4%BC%9A/
んですね。
 戦前のアジア主義者達、ヒンドゥー教(徒)への関心だけは薄かった?(太田)

 イブラヒムが<その>初代イマームとなった。
 二番目に、イスラーム学の研究者たちが立ち上げた回教圏研究所が、善隣協会の傘下に組み入れられ、『回教圏』という学術誌を創刊したことが挙げられる。・・・
 <善隣協会>が、この年から全額政府出資の国策団体に昇格し、運営資金が潤沢になったことが背景にあると思われる。
 これを受けて、善隣協会は内モンゴルでも回民工作に乗り出し<た。>・・・
 内モンゴルでも・・・回民社会が存在するばかりでなく、「ホトン」と呼ばれるイスラームを信仰するモンゴル人<(注55)>・・・も存在するため<だ。>・・・

 (注55)「歴史上のユーラシアは遊牧民の舞台であった。モンゴル高原から現れた遊牧民たちは緩やかに西へ移動し、テュルク化という現象が生じた。一方、西から東進してきたイスラームも各地で遊牧民たちに受け入れられ、ムスリム集団が林立するようになった。・・・
 モンゴル国西部のウブス県タリヤラン・ソムにホトン(Qotung)人と称されるムスリムが約2,000 人居住している。・・・中<共>内モンゴル自治区西部のアラシャン盟にも同様にホトンと自称する集団がいる。その人口は約2,000人程度で、「民族籍」はモンゴル族となっている。・・・また、青海省海北州にはトゥマ人というグループがあり、人口は僅か数百人程度だが、彼らもモンゴル人ムスリムである。」
http://www.aa.tufs.ac.jp/project/lwmp_20080216_01.pdf

(続く)