太田述正コラム#10933(2019.11.19)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その27)>(2020.2.9公開)
中国回教<総>聯合会<(注62)>は「中国回教徒の団結、中日満三国の提携、中華民国臨時政府の擁護、共産主義反対」という四つのスローガンを掲げ、教育普及、貧民救済、統計調査、起業支援、文献収集や文化財保護などの社会活動を実施する社会事業団体、いまで言うNPOであった。・・・
(注62)忘れないうちに書いておくが、「中国回教<総>聯合会」の原文は「中国回教總聯合会」であるところ、ネット上の諸文献は全て「中国回教総聯合会」と記しているのでそのような表記にしたものだ。
但し、「総」は「總」の新字体
https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%B8%BD
なので、その限りにおいては、関岡の方が、正しいわけだが、より正しい表記は「中國回教総聯合會」のはずなので、どちらも中途半端な表記ではある。
日本人ムスリム三田了一<(注63)>・・・は河南省の周家口・・・で福田規矩男<(注64)>(きくお)という日本人と出会う。
(注63)1892~1983年。「下関市に生まれ、1916年、山口高等商業学校(現・山口大学経済学部)を卒業。・・・1960年、日本ムスリム協会・・・<の>2代目会長に就任。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%94%B0%E4%BA%86%E4%B8%80
(注64)1884~?年。「佐世保<出身。・・・支那>に渡り、<1905>年上海で篠田宗平らの東光会に参加。そのころから回教徒との提携を企てて<支那>各地を回り、革命家の黄興、孫文らと知りあう。42年河南省の周家口に回教徒の子弟のため東方学堂を開き、自らもまた回教徒となる。45年回教徒覚醒運動の資金を得るため東南アジアへ出発したまま行方不明になった。」
https://kotobank.jp/word/%E7%A6%8F%E7%94%B0%20%E8%A6%8F%E7%9F%A9%E9%9B%84-1653760
篠田宗平についても東光会についても、ネットで少し調べた限りでは分からなかったが、「東光」は上海にあった東亜同文書院と関係がありそうだ。
http://library666.seesaa.net/article/137073711.html
福田は・・・大陸浪人で「日回親善」を掲げて地元の回民を対象とする・・・私塾を運営していた。
ここで三田はイスラームに開眼し、帰国後、日本人初のハッジ山岡光太郎に師事して改宗し、ムスリムとなる。
1920年に山岡の斡旋で満鉄に入社し、調査部、包頭公所長を経て、1941年に中国回教<総>聯合会の第二代首席顧問に就任した。
三田は<1943年に>・・・作成した・・・「支那に於ける我が回教対策に就いて」のなかで、回民に対する工作要領として宗教の発揚、経済の革新、啓蒙の三点を挙げている。
宗教が重視されたのは、ムスリムの反共精神に注目したからである。
三田は「回教信仰は共産主義とは絶対に相容れざる存在にして、その信仰と宗教生活によりて固まる彼等の社会は滅共の為の防壁たることが出来る」と説・・・<い>ている。(注65)
(注65)イスラム教には社会主義の伝統がある。
イスラム社会主義者達は、コーランとムハンマドが喜捨(ザカート)を奨励していることや、ムハンマドによる初期メディナ福祉国家という「史実」に注目する。
https://en.wikipedia.org/wiki/Islamic_socialism
「1917年のロシア革命<後、>・・・The Muslim Socialist Committee of Kazanや・・・Wäisi movementといった赤軍やボリシェヴィキと関係のある運動が起き・・・最初の実験的なイスラム教コミューン<群が設立された。>・・・
<戦後においても、>パキスタン人民党のリーダー<の>ズルフィカール・アリー・ブットー<は、>イスラム教学者が彼と彼のシステムが無神論的であると断言した<にもかかわらず、>イスラム教社会主義を進めた<し、>・・・1969年にクーデターによってリビアの元首となったムアンマル・アル=カッザーフィーによる支配的なイデオロギー<は>“イスラム社会主義”と呼<ばれているところだ。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E6%95%99%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9
⇒「注65」を参照するまでもなく、三田のこの認識は誤りに近いと言っても過言ではありません。
むしろ、どうして、三田、ひいては満鉄や帝国陸軍がこのような認識を抱くに至ったのかに興味があります。(太田)
経済工作の目的については、貧困に悩む回民の生活の向上を図ることは、民心を掌握するうえで切実な効果があるため、まず学校教育、職業教育の普及向上につとめ、社会道徳の昂揚を図るとしている。
(続く)