太田述正コラム#10935(2019.11.20)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その28)>(2020.2.10公開)
そして究極の工作目標として「回教徒をして、華北に於ける、またやがては共栄圏内の重要なる一環としての使命を完遂せしむる」ための啓蒙工作を挙げている。
三田は華北における回民工作を、大東亜共栄圏の建設という当時の日本の一大国策の一環として位置づけていたのである。
中国回教<総>聯合会の成立大会は2月7日に北京・・・で挙行された。・・・
大会の臨時主席をつとめたのは・・・劉錦標<(前出)>・・・であった。・・・
来賓として出席し祝辞を述べたのは喜多誠一<(注66)>陸軍少将、日本大使館の森島守人<(注67)>参事官、そして「機関長」という肩書の茂川秀和<(注68)>という三人の日本人である。
(注66)1886~1947年。陸士・陸大。「・・・参謀本部員・・・陸軍省軍務局課員、支那駐在、欧州出張、参謀本部員、参謀本部付(南京駐在)などを経て、・・・歩兵大佐に進級し歩兵第37連隊長・・・1932年(昭和7年)2月、上海派遣軍情報参謀となり、参謀本部付(支那出張)、関東軍参謀(第2課長)、参謀本部支那課長などを歴任し、1936年(昭和11年)3月、陸軍少将に進級して支那公使館付武官となった。1937年(昭和12年)8月、天津特務機関長に就任。・・・第二次上海事変発生時に、蒋介石総統と事件拡大回避の交渉をするも物別れとなる。その後、北支那方面軍特務部長を経て、1939年(昭和14年)3月、陸軍中将に進級し興亜院華北連絡部長官となる。1940年(昭和15年)3月、第14師団長・・・、第6軍司令官、第12軍司令官などを経て、1944年(昭和19年)9月、満州国敦化に司令部を置く第1方面軍司令官に就任。翌年3月、陸軍大将に親任され、終戦を迎えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%9C%E5%A4%9A%E8%AA%A0%E4%B8%80
(注67)1896~1975年。一高・東大。「外務省入省。1928年から1935年まで奉天総領事代理、ハルビン総領事を務めた。その後ドイツ大使館一等書記官を経て、1937年4月東亜局長、翌月北京・上海大使館参事官、1939年米国大使参事官、1941年ニューヨーク総領事、1942年ポルトガル公使を務めた。1946年に外務省を退官。1955年に神奈川3区から日本社会党左派で衆議院議員に初当選。統一後の日本社会党では党国際局事務局長、外支部長、政策審議会外務部長を務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E5%B3%B6%E5%AE%88%E4%BA%BA
(注68)「<最終階級は大佐。>・・・1936年支那駐屯軍司令部参謀部付(天津特務機. 関長),42年北支那方面軍司令部付(北京特務機関長)などを経て,終戦後の47年に北京軍事法廷で死刑判決。その後減刑され,49年に帰国し,巣鴨拘置所に送致。52年に釈放された。茂川は57年2月<と6月>に・・・<国交回復前の中共に>訪中している。」
https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=16367&file_id=162&file_no=1
「茂川機関<は、>・・・茂川秀和少佐が設立した機関で、天津陸軍機関に所属していました。主に阿片(アヘン)の中国国内での密売を行った他、盧溝橋事件での工作を行ったとも言われています。」
https://ichiranya.com/society_culture/062-secret_military_agency.php
成立大会閉会後、参列者は自動車数十台を連ね、北京市内を2時間余りかけてデモ行進を行った。・・・
最後尾の車が見えないほどの長蛇の車列<だった。>・・・
中国においてマイノリティである回民がこれほど大規模なデモを平和裡に展開したのは空前絶後であった。
これ<は>日本軍の保護下でなければ到底不可能だったはずだ。・・・
<もっとも、>中国回教<総>聯合会と銘打ってはいたものの、・・・事実上、華北のみをカバーしていたのが実態であった。
<その後、>西北だけ<だけだったが、追加的にカバーされ、>西北聯合<総>部<が>1938年12月に厚和(現在のフフホト)に設立され、小村不二男<(注69)>という日本人ムスリムが主席顧問に就任した。
(注69)「<イスラム名>ムハンマッド・ムスタファ・・・父君から引続いてのモスレム」。著書に『日本イスラーム史・戦前、戦中歴史の流れの中に活躍した日本人ムスリム達の群像』(1988年)がある。
http://islamjp.com/culture/rekishi_frame.html
小村は1912年、京都に生まれ、天理大学で漢語とモンゴル語を学んだあと大陸に渡り、終戦まで一貫して内モンゴルでイスラーム工作に従事した諜報員で<ある。>・・・
盧溝橋事件の勃発以前<の>・・・田中隆吉の軽挙によって蹉跌した防共回廊工作<(前出)>は、ここに陣容も新たに蘇ったのである。・・・
⇒そうではなく、「軽挙に」見えるやり方で予定通り「蹉跌」させた防共回廊工作だった、ということを、ここで再度強調しておきましょう。
で、そのおかげで日支戦争が始まってくれていたところ、回民を中国国民党政権に取り込まれないように、帝国陸軍は(中国共産党と「協力」しつつ)回民(とウィグル人)の宣撫工作を進めた、ということでしょうね。(太田)
(続く)