太田述正コラム#10941(2019.11.23)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その31)>(2020.2.13公開)

 1919年・・・頃から、孫文は五族協和論を否定するようになり、満・蒙・回・蔵を漢民族に同化させて「中華民族」となし、一民族国家にしなければならないと主張するようになった。・・・
 ・・・蒋介石は・・・<五族>は固有の民族ではなく、「大中華民族」<(注73)>という一つの民族のなかの「宗族宗支」に過ぎないと主張し、諸民族の固有性を否定した。・・・

 (注73)「「中華民族」という単語が初めて公式に出てくるのは、1900年11月、清の政治家伍廷芳の講演とされる。その後、清時代のジャーナリストの梁啓超などが使用するようになる。梁啓超の著作では、1905年に書かれた歴史上中国民族之観察では、満州族やモンゴル族、チベット族は中華民族に含まれないとしているが、1922年の「中国歴史上民族之研究」では満州族を中華民族に含むとしている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E6%B0%91%E6%97%8F

 <そして、>日本が民族自決論を掲げて回民やモンゴル人の分離独立を支援することへの対抗上、・・・このドグマにますます傾斜していったわけである。・・・
 毛沢東は1938年10月『新段階を論ず』を発表し、中国国民党の政策を「大漢族主義」だと徹底批判した。・・・
 <遡れば、長征において、>瑞金を撤退した中国共産党の残党は、国民党の勢力圏を避け、西南から西北にかけて異民族の領土をさまよいながら、ソ連の庇護を受けやすい東トルキスタンか外モンゴルに根拠地を求めて北上、青海省と寧夏省の回民軍閥から激しい攻撃を受けたため、東トルキスタンには近づくことさえできなかった。・・・

⇒毛沢東は最初から延安を目指していた、という私の見解を披露したことがあります。(コラム#省略)(太田)

 1936年5月、中国共産党主席、毛沢東は「中華ソビエト中央政府の回民人民に対する宣言」を発表し、回民に漢人と平等の権利を認め、その宗教信仰と風俗習慣を尊重し、回民自治政府の設立を支援するという工作方針を打ち出した。・・・
 1939年、中国共産党は河北省の馬本斎<(注74)>という回民が率いる部隊を「冀中回民支隊」と命名し、「百戦錬磨の回民支隊」と盛んに賞揚した。

 (注74)馬本齋(1901~44年)。「馬本齋は、東北陸軍講武堂を卒業する。かつて東北軍中団長を任されていた。満州事変の後で、蒋介石の不抵抗政策を不満に思い、故郷に帰って「回民義勇隊」を組織し、日本軍に抵抗して反撃を加えた。1938年部下を率いて八路軍に参加して、同年中国共産党に入党する。回民教導総隊総隊長、冀中回民支隊司令員、冀魯豫軍区第3軍分区兼回民支隊司令員を歴任し、部下を率いて冀中ならびに冀魯豫の平原を転戦する。回民支隊隊は晋察冀辺区の司令員の呂正操に管轄されていた。1944年、部隊は延安に行くよう命令を受け、その途中、頭部の「砍頭瘡」のために山東省莘県で病死した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E6%9C%AC%E9%BD%8B
 「東北陸軍講武堂は、清朝末期から中華民国(北京政府)期にかけて奉天に存在した陸軍軍官学校である。その時期によって盛京講武堂 (奉天講武堂)・東三省講武堂・東三省陸軍講武堂・東北陸軍講武堂と名を変える・・・最盛期には雲南陸軍講武堂・保定陸軍軍官学校・黄埔軍官学校と並んで「四大軍官学校」とも称された。1931年の満州事変によって奉天が日本軍の占領下に置かれると共に消滅した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%8C%97%E9%99%B8%E8%BB%8D%E8%AC%9B%E6%AD%A6%E5%A0%82

 現地の日本軍も注目するところとなり、馬本斎の母親を捕えて息子に投降を促す手紙を書くように命じたが、母親はハンガーストライキをして絶命した。
 その後も馬本斎は抗日ゲリラ隊を指揮したが1944年に病死した。
 中国共産党はこのエピソードを「母子二代の抗日英雄譚」として情緒的な美談に仕立て、共産党指導下での漢人と回民の共闘の模範例として宣伝戦に徹底活用した。
 
⇒どうせ、(事実上、帝国陸軍と共同で制作されたところの、)実態を大きく膨らませた、対回民軍閥や対中国国民党向けのプロパガンダ用の「美談」でしょう。(太田)

 1941年4月、『回回民族問題』と題する書籍が・・・延安で出版された。・・・
 党の綱領を一般書として頒布したものだ。・・・
 中国共産党<が、>回民政策に関しては中国国民党より日本のそれのほうが本質を突いており、回民の支持を獲得するうえで有効であることを見抜き、これを換骨奪胎して自らの政策に取り込んだわけである。

⇒要は、中国共産党として、事実上提携していた帝国陸軍が推進していた政策が、対中国国民党という観点から有効であると判断して、方便的に採用した、ということでしょう。
 現在の中国共産党は、事実上、国民党の「大中華民族」論に回帰しています(注75)。

 (注75)「1988年、費孝通が発表した「中華民族多元一体構造」論では、中国に住む諸民族は、数千年の歴史を経て形成された一体性を有するとしている。この「中華民族多元一体構造」は現在の中国の民族政策の基本路線を成すとされる。
 習近平は、2012年11月の中国共産党中央委員会総書記就任から「中華民族の偉大なる復興」をスローガンに掲げている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E6%B0%91%E6%97%8F
 費孝通(1910~2005年)。燕京大卒、精華大修士、LSE博士。「中華民国、中華人民共和国の社会学者、人類学者、民族学者,中国の社会学と人類学の基礎を創った一人。第七、八回全国人民代表大会常務委員会副委員長,中国人民政治協商会議第六回全国委員会副主席を務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%BB%E5%AD%9D%E9%80%9A

 その中国共産党が独立国たるモンゴル(外蒙古)をどう位置付けているのかを知りたいところです。
 朝鮮史を「大中華民族」史に取り込んだ(コラム#省略)以上、外モンゴルも取り込んでいなければおかしいはずですが・・。(太田)

(続く)