太田述正コラム#10953(2019.11.29)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その37)>(2020.2.19公開)
・・・ここに馬仲英が再び登場する。
コムルの反乱の際にウイグル人の救世主となった風雲児が突然、東トルキスタンに再び侵入した。
但し今度はウイグル人を救うためではなく、征服するためだった。・・・
カシュガル<の>・・・東トルキスタン・イスラーム共和国はあえなく崩壊し、大統領ホジャ・ニヤズと総理大臣サビド・ダームッラーは敗走した。
続いてホタン・イスラーム王国も馬仲英軍に攻撃されて崩壊、アミールのムハンマド・イミン・ボグラは英領インドのカシミール地方に亡命した。
勢いを得た馬仲英は・・・ウルムチを包囲した。
窮地に陥った「新疆王」盛世才がソ連に救援を求めたため、馬仲英・・・軍<は>・・・敗走<したが、>・・・スヴェン・ヘディン<(注88)>の探検隊がこの争乱に巻き込まれ<た。>・・・
(注88)1865~1952年。スウェーデン人。ベルリン大で学び、独ハレ=ヴィッテンベルク(Halle-Wittenberg)大博士。ニコライ2世、フランツ・ヨゼフ2世、ヴィルヘルム2世、第9世パンチェンラマ、明治天皇、ピオ10世、セオドア・ローズベルト、ヒンデンブルク、蒋介石、ヒットラー、らから表彰を受けている!
https://en.wikipedia.org/wiki/Sven_Hedin
<この探検の>ヘディンのスポンサーは蒋介石政権だった・・・。
ヘディン自身の探検の目的は「さまよえる湖」ロプ・ノール<(注89)>を見つけることだったが、重慶から支度金を与えられた見返りに、東トルキスタンでソ連方面からの援蒋ルートを開拓するという密命も帯びていたのだ。・・・
(注89)「タリム盆地はヒマラヤ造山運動に伴って形成された地形であり、今からおよそ2万年前の最後の氷期から現在の間氷期へと遷り変わる頃には、盆地のほぼ全域がカスピ海のような極めて広大な湖となったが、その後気候が温暖化するにつれて次第に水が失われ、大部分が砂漠になったと考えられている。この説に従うなら、ロプノールなどタリム盆地に散在する湖沼は、その湖の最後の名残ということになる。
ロプノールには、タリム盆地を取り囲む山脈の雪解け水を集めるタリム川(正確にはタリム川の分流)が流れ込むが、湖から流れ出る川はない。つまりロプノールは、内陸河川であるタリム川の末端湖のひとつであり、湖水は強い陽射しで蒸発するか地中に浸透して消えていくため、次第に塩分が蓄積して塩湖となった。紀元前1世紀の頃にはまだ大きな湖であったという記録が残されているが、4世紀前後に干上がったと見られている。
1901年に中央アジア探検家によって、「ロプノールの周辺地域は標高差がわずかしかなく、堆積や侵食作用などによってタリム川の流路が大きく変動するために、湖の位置が南北に移動するのだ。ロプノールはいつかきっと元の位置に戻ってくる」とする「さまよえる湖」説が提示され、それからわずか20年後の1921年に、予言通りタリム川の流れが変わって湖が復活したことから広く知られるようになった。
復活後は、上流の天山山脈などの降雪降雨量によって流れ込む水量が変わるため、消長を繰り返しながらも20世紀半ばまでは水をたたえていた。しかし、タリム川にダムが建設されたことなどもあって、現在は再び完全に干上がっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%97%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%AB#%E3%80%8C%E3%81%95%E3%81%BE%E3%82%88%E3%81%88%E3%82%8B%E6%B9%96%E3%80%8D
⇒この話、「注88」のヘディンの浩瀚な英語ウィキペディアでも言及されていないところ、関岡は何の典拠も付していませんが、この英語ウィキペディアは、ヘディンが新疆省の灌漑計画と新疆省と北京を結ぶ道路のルート計画の策定を依頼されていたという話は出てきます。
その後、このルート計画を踏まえ、北京とカシュガルを結ぶ道路が建設された、と。(太田)
逃げ場を失った馬仲英は・・・モスクワに連行され<てしまう。>・・・
一方、東トルキスタン・イスラーム共和国の大統領ホジャ・ニヤズは・・・盛世才と妥協する道を選んで共和国政府の解散に同意し、大統領を辞任して新疆省の副主席にあっさり就任してしまう。・・・
ホジャ・ニヤズの裏切りに反発した総理大臣サビド・ダームッラーは盛世才軍に逮捕され処刑された。
だが、ホジャ・ニヤズ自身も結局は盛世才によって処刑されてしまう運命にあった。・・・
憲法でイスラームを国教と定めた東トルキスタン・イスラーム共和国の建国は、サウジアラビア王国の建国に遅れることわずか1年、そして1947年のパキスタン・イスラーム共和国の建国、1979年のイラン・イスラーム共和国の建国よりもはるかに先行し、共和制イスラーム国家としては世界最初の政権であ<った。>・・・
⇒この文脈でサウディアラビアに言及がなされたことには首を傾げざるをえません。
それは、サウード(サウド)家によるところの、1744年に建設された第一次サウード王国が1818年に滅亡し、第二次サウード王国が1824年から1891年まで存続した後を受けて、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E3%82%B5%E3%82%A6%E3%83%BC%E3%83%89%E7%8E%8B%E5%9B%BD
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E3%82%B5%E3%82%A6%E3%83%BC%E3%83%89%E7%8E%8B%E5%9B%BD
1902年に再建されたところの、第三次サウード王国ともいうべき、ナジュド及びハッサ王国が1927年のヒジャーズ・ナジュド王国への衣替えを経て再度1932年にサウディアラビア王国へと衣替えを果たした
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A6%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%93%E3%82%A2
だけのことであり、この間、第一次サウード王国以来の、イスラム世界に誕生した久方ぶりのイスラム原理主義国家という性格は一貫して変わっていないことから、1932年に注目する意味は殆どないだけでなく、サウディアラビアは、共和制とは対蹠的な存在でもあるからです。(太田)
(続く)