太田述正コラム#10957(2019.12.1)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その39)>(2020.2.21公開)
・・・大川周明は大正時代に出版した『復興亜細亜の諸問題』のなかで、一章をさいてアフガニスタンの地政学的重要性を説いている。
更に、日本との国交を求めてたびたび来日したアフガニスタン国王の特使ラージャ・プラタップの日本での活動を物心両面で支えた。
プラタップはインド生まれだが、アフガニスタンが独立する<(注91)>とカブールを拠点として反英インド独立運動を展開していた。
(注91)「アフガニスタン<は、>・・・1878年からの第二次アフガン戦争の結果、イギリスによって事実上保護国化された<が、>1919年の第三次アフガン戦争・・・で、<英>軍を退けたアマーヌッラー・ハーン・・・は独立<(外交権)>を回復させ<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%AC%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
アマーヌッラー・ハーン(1892~1960年)。「1919年2月21日の国王ハビーブッラー・ハーンの死後、2月27日、叔父のナスルッラー・ハーンを追い出して国王(アミール)を宣言した。2月28日、アフガニスタンの独立を宣言した。
対外的には、5月にイギリスに対してジハードを宣言し、イギリス領インドのパンジャーブ州のパシュトゥーン人に蜂起を煽動した。これにより、第三次アフガン戦争が勃発した。イギリスは、アフガニスタンに1ヶ月間部隊を投入したが、顕著な軍事的及び政治的成果を収められずに退却し、対外政策問題も含めてアフガニスタンの独立が承認された。また、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国と外交関係を樹立した。
アフガニスタンの聖職者階級は、当初新国王を支持していたが、すぐに積極的な敵対派に変わった。聖職者の特別な不満を引き起こしたのは、多妻制及び未成年者との結婚の禁止、チャードルを被る義務の撤廃、並びに女学校の開校及び教育に対する聖職者階級の監督の廃止等、オスマン帝国で行われたような改革の実施だった。そして1923年以降、改革に不満を持った保守派の蜂起が頻発した。1923年、ハザラジャート州で、1924年、パクティヤー州でそれぞれパシュトゥーン人の蜂起が起こったが、これらを鎮圧した。
1926年6月7日、国王の称号をアミールからシャーに変更した。同年、ソビエト連邦と中立及び相互不可侵条約を締結した。
1928年、カーブルの男性に洋服の着用を義務付ける命令を公布するも、この命令は結果的にアマーヌッラーの致命傷となった。同年、シンワラ等の地で反乱(「バッチャ・サカオの乱」)が起こった。これを好機と見たイギリスは、タジク人の反乱指導者ハビーブッラー・カラカーニーに資金と武器を手渡してアマーヌッラーの打倒に乗り出した。ハビーブッラー・カラカーニーの部隊がカーブルを占領すると、1929年1月14日、兄のイナーヤトゥッラーに王位を譲り、イタリアに亡命した。
なお、イナーヤトゥッラーも数日後ハビーブッラー・カラカーニーによって王位を追われた。その後も混乱は続き、1929年10月にアマーヌッラーのもとで国防相を務めた経験を持つムハンマド・ナーディル(<アマーヌッラー・ハーンらの>バーラクザイ朝王家の分家出身)がハビーブッラー・カラカーニーを処刑して王位を継いだ(ムハンマド・ナーディル・シャーに続く王朝をナーディル・シャー朝とも称する)。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%83%83%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B3
「ドゥッラーニー朝は、18世紀にアフガニスタンに存在した王朝。首都はカンダハール。広義のドゥッラーニー部族連合による王朝という意味では、サドーザイ朝(1747年~1826年)と、続くバーラクザイ朝(1826年<~>1973年)をあわせてドゥッラーニー朝という。狭義のドゥッラーニー朝は、サドーザイ朝・・・を指す。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%83%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%BC%E6%9C%9D
⇒「独立」前後の話は、現在のアフガニスタンの泥沼的状況の歴史的背景として参考になりますね。(太田)
日英同盟の時代ゆえ日本政府は英国に気兼ねして、来日したプラタップの行動を官憲に監視させるなどの圧力を加えた。・・・
<しかし、>大川周明を中心とした大アジア主義者たちの献身的な奔走により、1928年に日本とアフガニスタンの国交が樹立され、1934年、首都カブールに日本公使館が開設され、北田正元が初代公使として赴任したわけである。
⇒プラタップについて、ネットを少し当たった限りでは何の情報も得られませんでしたが、日本政府がプラタップを警戒したとしても、そのことと、アフガニスタンとの国交樹立の話とは、すぐ後に出て来る話を参照するまでもなく、直接関係がないはずです。(太田)
当時カブールには既にソ連、トルコ、ペルシャの大使館、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアの公使館が開設されており、更にアメリカとエジプトも近く公使を派遣してくるという状況で、まさに各国が入り乱れて諜報戦を展開していた。
⇒むしろ、日本の在外公館の設置がアフガニスタンでどうしてそんなに遅れたのか、が不思議です。(太田)
(続く)