太田述正コラム#10202005.12.28

<キリスト教と私(その2)>

 しかし、幸いにしてこのところ、キリスト教はその非寛容性から急速に脱却しつつあります。

 カトリック教会は、1960年代初頭の第二バチカン会議(Second Vatican Council)において、プロテスタントはもとより、ユダヤ人やイスラム教徒であって、カトリック教徒同様、(生きていた時に善行を積めば、)ただちに天国に行ける(=救済される)、という公式的立場に立つに至っています(http://meaningoflife.tv/?speaker=albacete&topic=death1224日アクセス)(注5

 (注5)そこまで言及されてはいないが、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教以外の宗教の信徒や無神論者も、(生きていた時に善行を積めば、)ただちに天国に行ける、と解されるようになったと考えられている(上記典拠及びNYタイムス下掲)。それまではこれらの人々は、一旦リンボー(limbo。ラテン語ではlimbus。善行と悪行が相半ばする場合に送られるPergatory=煉獄、とは異なる)に送られ、将来のキリストの再臨の際にやっと天国に行ける、という扱いだった(http://www.newadvent.org/cathen/09256a.htm1228日)。

     (原罪だけは背負っているものの善行も悪行もつんでいないところの、キリスト教の洗礼を受ける前に死亡した乳児や胎児は、依然リンボー(上記のlimbus patrumに対し、limbus infantiumと呼ばれる)に送られることになっているところ、法王庁は今年、この扱いの見直しに着手したhttp://www.nytimes.com/2005/12/28/international/europe/28limbo.html?pagewanted=print及びhttp://www.newadvent.org/cathen/09256a.htm。どちらも1228日アクセス))。

カトリック教会(ひいてはキリスト教)がかかる結論に至るまでに、一体どれだけの無駄な人間の血が流されたことか。これに比べて、無神論的宗教である仏教とりわけ大乗仏教(Mahayana Buddism)や、多神論的汎神論的宗教である神道の内在的寛容性は際だっている。(大乗仏教の寛容性については、例えばhttp://www.slate.com/id/2132724/1223日アクセス)を見よ。)

 このように遅ればせながらも、キリスト教が大変身を遂げることができたのは、キリスト教には、イスラム教とは違って、聖典の柔軟な解釈を許す伝統が初期から存在したからです。

 例えば、初期のキリスト教哲学者として著名なアウグスティヌス(Augustine354?430年)は、「聖書の権威による解釈が、明白かつ確固たる理性に反する場合は、その聖書を解釈した権威が聖書を正しく理解していないことを意味すると解されなければならない」と言っています(http://www.nytimes.com/2005/12/25/books/review/25meacham.html?pagewanted=print前掲)。

(続く)