太田述正コラム#10967(2019.12.6)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その44)>(2020.2.26公開)
このとき中国国民党側の代表として送り込まれたのが張治中(ちょうじちゅう)<(注99)(前出)>である。・・・
(注99)1890~1969年。「保定陸軍軍官学校を卒業し、<周恩来のいた>黄埔軍官学校で<勤務していた時、>・・・張治中は回想録の中で周恩来に中国共産党への入党を申請したが周恩来からは国民党にとどまり「ひそかに」中国共産党と合作することを求められたと書き残している。・・・<その後、>中国国民党の北伐に参加・・・。1932年・・・の第一次上海事変では第5軍軍長を務め、1937年・・・には第9集団軍司令官として第二次上海事変に参加した。同年11月、張治中は湖南省政府主席・・・1945年・・・新疆省政府主席を務める。中国共産党との重慶での和平交渉では、国民党代表となった。1949年・・・1月、代理総統李宗仁の指示により、国民党側の和平交渉代表団となり、北平で共産党との和平交渉を行ったが、失敗に終わる。そして張は、そのまま北平に留まり、共産党政権への参加意思を示した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E6%B2%BB%E4%B8%AD
<彼>はその後、中国共産党側に寝返って大陸に残留し、一時は全国人民代表大会常務委員会副委員長にまで上りつめた・・・。
なお、張治中は死後、・・・『マオ 誰も知らなかった毛沢東』・・・によって中国共産党の秘密党員だったことや、党の指示に従って上海事変を仕かけて北支事変を日中間の全面戦争に拡大することを企てたことなどが暴露されたいわくつきの人物である。
⇒「張治中・・・<は>中国共産党には加入(再加入)して<おらず、>・・・生涯を終えるまで中国国民党革命委員会(民革)の所属に留まった。・・・なお、本当にスパイ(スリーパー)であった著名人物として例えば熊向暉がいるが、熊の場合はスパイ活動中も一貫して秘密共産党員であり、内戦終結後は自らの身分を公開している。」という批判がある(上掲)が、(かねてから記してきたように、)毛沢東は杉山元らと連携して、日支戦争の勃発と拡大を行ったのである以上、中国共産党に密かに通じていた張治中が、上海事件を煽り立てるくらいのことは、大いにありえたことでしょう。
それにしても、関岡、これだけ議論になっているにもかかわらず、張治中が中国共産党の秘密党員であった等と断定的に書いちゃあいけません。(太田)
ソ連の傀儡アフメドジャン・カスミと、・・・<中国共産党に通じていた>張治中とによる出来レースのような和平交渉の結果、東トルキスタン共和国は解体され<た。>・・・
1950年から52年にかけて、東トルキスタン各地で数千人から数万人の部族単位の大規模な武装蜂起が相次いだ。
中国共産党は徹底した武力弾圧でこれに臨んだが、続発してやまない抵抗運動の背景には、土地改革や生産手段の集団所有化といった急進的な社会主義化政策への反発があることを認めざるを得ず、政策の一時中止に追い込まれた。・・・
まつろわぬウイグルの民の手強い独立運動に手を焼いたためか、中国共産党は「新疆生産建設兵団」と称して東トルキスタンに漢人部隊を大量入植させる政策を発動し、1954年に第一陣として20万人が送り込まれた。・・・
兵団員はそのまま東トルキスタンに定着する者が多<かった。>・・・
更に90年代以降は、・・・油田開発やパイプライン建設の労働者として更に大量の漢人が・・・入植した。
こうした人為的な大量入植政策の結果、東トルキスタンの人口構成は、1949年時点ではウイグル人の比率が80%近くを占め、漢人比率はわずか7%未満だったのが、2000年の人口調査ではウイグル人比率が約45%まで低下した半面、漢人比率は40%近くまで跳ね上がっている。
1962年4月<には>、ソ連との国境地帯のイリ及びタルバガタイ地方で、6万人ものウイグル人やカザフ人が家畜30万頭を連れてソ連に集団逃亡するという大事件が起きた。・・・
⇒この「大事件」は、政治的理由によるというよりは、「[1958年から1961年までの]大躍進政策とその影響による飢饉のため、<中共>全土で数千万人ともいわれる、大規模な死者<が>出<たが、>自治区の経済及び住民生活も大打撃を受けた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%96%86%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%AB%E8%87%AA%E6%B2%BB%E5%8C%BA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%BA%8D%E9%80%B2%E6%94%BF%E7%AD%96 ([]内)
という経済的理由による、と思われます。(太田)
中国側が慌てて国境を封鎖すると、クルジャで大規模な騒乱が発生し、共産党委員会支部など権力機構の中枢がウイグル人やカザフ人に襲撃された。・・・
2001年9月11日に米国で起きた同時多発「テロ」をきっかけに、中国当局は東トルキスタンで起きてきた「テロ事件」をむしろ積極的に海外へ広報し、中国側の「被害」を喧伝することによって、テロとの戦いを掲げる米国の同情と共感を買うという戦術に転換した。
・・・2002年1月・・・当時の米国国務省のバウチャー報道官が「中国とアメリカはともにテロリズムの被害者である。我々は中国と反テロの協力を切望し、新疆その他中国国内でのテロによる暴力に反対する」と表明した。・・・
しかし米国はその後、中国に利用されたことに気づき、2005年にラビア・カーディル<(注100)>氏の亡命を受け入れ、アメリカ民主主義基金(NED)を通じて資金援助を行うまでに方針転換している。・・・
(注100)1947年~。「1976年から洗濯業などで貯めた資金を元に、小売業を展開し成功を収め、・・・不動産業でも活躍し・・・<中共>十大富豪の1人に数えられるまでになった。
・・・ラビアは、共産党への入党を認められ、1993年には中国人民政治協商会議全国委員に選出されたほか、1995年に北京で開かれた国連の第5回世界女性会議に中国代表として出席。新疆ウイグル自治区商工会議所副主席、新疆女性企業家協会副会長などの役職を務めた。
また、・・・ウイグル人女性の経済的自立の促進に貢献した。
ラビアは、・・・新疆におけるウイグル人の人権状況改善を党・政府に対して積極的に訴え<、>1996年の政治協商会議では、漢族によるウイグル人抑圧を非難する演説を行い、注目を集めた。
同年には、ラビアの夫で作家のシディク・ハジ・ロウジが行った書籍の翻訳や、政協会議でのラビアの演説が公安当局の間で問題となり、ラビアは1997年に全ての公的役職から解任された(シディク・ハジ・ロウジは・・・9年間に渡り監獄に拘禁され<た後、>・・・1996年に<米国>に亡命)。1999年8月13日、公安当局は、ウルムチ市内に滞在していた<米>議会関係者に接触しようとしたラビアを逮捕し6年間に渡り政治犯として監獄に拘禁<し>た。・・・ラビアの息子2人は現在にいたるまで監獄に拘禁されている。
ラビアの逮捕<を受け、>・・・国外のウイグル人を中心に、<中共>政府にラビアの釈放と、ウイグル人への人権侵害の停止を要求する運動が展開された。こうした運動は、欧米社会の関心を集め、・・・<国際>人権<諸>団体による支援も行われた。ライス米国務長官の訪中を控えた2005年に、<米国>から人権問題での批判を受けることを恐れた<中共>政府は、2005年3月14日に、「外国での病気療養」を理由にラビアを釈放した。ラビアは米国に亡命することとなった。
<現在、>世界ウイグル会議の議長」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%93%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%AB
⇒ここまで、関岡は、このような中共におけるウイグル人問題にイスラム諸国やイスラム系過激派を含む、イスラム教徒達が沈黙していることに全く触れていませんが、理解に苦しみます。(太田)
(続く)