太田述正コラム#10971(2019.12.8)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その46)>(2020.2.28公開)

 ・・・小島麗逸<(注101)>氏<は、>・・・ウイグル人は自分たちの土地で、新疆生産建設兵団<(前出)>と巨大国有企業群の二重支配下で苦しめられているという。

 (注101)1934年~。一橋大(経)卒。アジ研、大東文化大教授、大東文化学園理事、名誉教授。北京大客員教授も務めた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B3%B6%E9%BA%97%E9%80%B8

 生産建設兵団は・・・北京の中央軍事委員会直属で、「自治区」政府の管轄権が及ばない治外法権的存在となっており、農業用水の方湯女国境地帯や幹線鉄道の沿線地帯など、立地条件の良好な土地の使用権を優先的に配分され、農業、農産物加工業、綿紡績工業などの基幹産業において独占的地位を保障されているという。
 一方、・・・石油、天然ガス、レアメタル、ウランなどの豊富なっ戦略物資の開発は、ペトロチャイナや市のペックといった北京に本社を構える中央国有企業の直轄事業とされており、新疆生産建設兵団でさえ手を出せない。
 これら中央国有企業の従業員のうち、ウイグル人など非漢人が占める比率は1990年の時点でわずか10%にも満たないという。・・・
 ウイグル人は・・・劣悪な立地での農業、市街地での行商や零細サービス業など低収入の就業機会しか許されていないのが実態である。・・・
 「ウルムチ七・五事件」<(注102)>は、この植民地構造の矛盾が臨界的に達したことを示す歴史的事件である。

 (注102)「、2009年7月5日に、・・・ウルムチ市において発生した騒乱事件である。このデモに先立つ6月に広東省の工場でデマを発端として、玩具工場で労働者として勤務しているウイグル人が<漢>人に襲撃され多数が殺傷されたが、襲撃側の刑事処分が曖昧にされたことからウイグルでの不満が高まったことが本事件の引き金となったとされる。 新華社通信によると(2009年7月15日現在)、死者192名、負傷者1,721名に上る犠牲者が出たとしている。
 新疆ウイグル自治区における抗議事件としては2008年3月のホータン市での抗議デモ以来の事件であり、1997年に起きたグルジャ市での大規模な官民衝突に匹敵する犠牲者を出した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/2009%E5%B9%B4%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%AB%E9%A8%92%E4%B9%B1

 そもそもウルムチはウイグルの地において異質な都市である。
 その起源は18世紀に乾隆帝が東トルキスタン攻略の際に建設した軍事拠点で、かつては「夷狄を教化する」という差別的意味の「迪化(てきか)」と命名されていた。<(注103)>

 (注103)当初は「迪化城」で、それが略されて「迪化」となった。「清朝光緒帝の1880年代に新疆省が設置されると、迪化は同省の省都となった。ウルムチという言葉はジュンガル部の言葉で「美しい牧場」を意味するが、これが1955年の新疆ウイグル自治区の成立に伴って正式な市名となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%81%E5%B8%82 前掲

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[新疆史]

 前史から始める。↓

 「840年、ウイグルは内乱とキルギス族の攻撃を受けて、遊牧ウイグル国家は崩壊した。このときウイグル人はモンゴル高原から別の地域へ拡散し、唐の北方に移住した集団はのちに元代のオングートとなる。 一部は吐蕃,安西へ逃れ、西の天山方面のカルルク(葛邏禄)へ移った一派は、後にテュルク系初のイスラーム王朝であるカラハン朝を建国した。甘粛に移った一派はのちの960年、甘粛ウイグルをたてる。他の主力となる一派は、東部天山のビシュバリク(北庭)、カラシャール(焉耆)、トゥルファン(高昌)を制圧し、タリム盆地周辺をかかえて、西ウイグル王国(天山ウイグル王国)を建国する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%AB#%E9%81%8A%E7%89%A7%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%AB%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E3%81%AE%E5%B4%A9%E5%A3%8A%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%BE%8C%E3%81%AE%E5%88%86%E6%95%A3
 「12世紀に入り、東から耶律大石がこの地を征服して西遼を建て、<天山ウイグル王国の>ウイグル族はこれに服属するようになるが、13世紀にモンゴルでチンギス・ハーンが勃興すると、1211年にウイグル国王(イディクト)バルチュク・アルト・テギンがこれに帰順した。
 モンゴル帝国以後はイスラーム化した。
 現代のウイグル<ないし>ウイグル人への民族的連続性については、必ずしも一致をみないとする捉え方が存在する。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%B1%B1%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%AB%E7%8E%8B%E5%9B%BD

⇒東トルキスタンのウイグル人・・後にそう自認するようになった人々を含む・・は、爾来、東トルキスタン地域で「自治」を行ったことがないまま現在に至っているわけだ。(太田)

 「乾隆帝のジュンガル<(注104)>征服により、旧ジュンガル領のタリム盆地、イリ盆地<のウイグル人>は、清朝の支配下に入り、・・・(・・・新疆、「新たな征服地」の意)と呼ばれるようになった。

 (注104)「17世紀から18世紀にかけて現在のジュンガル盆地を中心とする地域に遊牧民オイラト<(前出)>が築き上げた遊牧帝国、およびその中心となったオイラトの一部族。オイラト部族連合に属し、一時期はオイラトの盟主となって一大遊牧帝国を築き上げた。ジュンガル帝国の滅亡後、このような遊牧帝国が2度と生まれなかったため、最後の遊牧帝国とも呼ばれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%AB

 清朝政府は、天山山脈北部にイリ将軍府を設置し、旗人による軍政を敷いた。
 その一方、ムスリム社会の末端行政には、在地の有力者に官職を与え、自治を行わせる「ベグ官人制」が敷かれ、在地の社会構造がそのまま温存された。
 1865年から1870年にかけて、コーカンド・ハン国<(注105)>の将軍ヤクブ・ベクが新疆の主要都市を攻略すると、清朝政府は、1875年に欽差大臣の左宗棠<(注106)>を派遣し、ヤクブ・ベクの勢力を駆逐。

 (注105)「18世紀後半から19世紀前半にかけて、フェルガナ盆地を中心に中央アジアに栄えたテュルク系イスラム王朝。現ウズベキスタン領フェルガナ州西部のコーカンド(ホーカンド)を都としてカザフスタン、キルギス、タジキスタンの一部に及ぶ西トルキスタンの東南部に君臨する強国に成長、一時は清朝の支配する東トルキスタンにまで勢力を伸ばしたが、内紛と周辺諸国の圧力から急速に衰え、ロシア帝国に併合されて滅んだ。
 ウズベクと称されるジョチ・ウルス系の遊牧民が中心となって建設されたいわゆる「ウズベク3ハン国」のひとつであるが、他の2ハン国と異なり建国時から一貫して君主はチンギス・ハーンの血を引かないミング部族の出身である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%B3%E5%9B%BD
 (注106)1812~85年。「科挙・・・には合格出来ず・・・家塾の師となり、歴史や地理の研究に没頭していた<が、>・・・1850年・・・に太平天国の乱が勃発すると、<政府軍に入り活躍、>・・・太平天国鎮圧後は曽国藩や李鴻章らと共に軍備強化のため洋務運動を推進し<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A6%E5%AE%97%E6%A3%A0

 新疆は再び清朝の支配下に入った。
 ロシア国境の防衛を重視する左宗棠ら「塞防派」は、国境地帯に対する中央政府の統制を強めるため、新疆に対する従来の間接統治を廃止し、<支那>内地と同様の行政制度を導入することを主張した。
 これを受けて、清朝政府は、1884年に新疆省の設置を行った(「新疆建省」)。
 新疆省の官衙は、迪化(現在のウルムチ)に置かれ、省政府の要員には、巡撫以下、科挙官僚が配置された。

⇒それまでは、満洲人の統治下に置かれていたウイグル人達が、漢人の統治下に置かれたのはこの時点以降である、と認識すべきだろう。(太田)

 ベグ官人制も廃止され、内地と同様の区、府、州、県といった地方行政制度が導入された。
 神戸大学教授の王柯はこの新疆省の設置について「民族自治の権利が剥奪され、ウイグル人は漢民族出身者による直接支配下に入った」としている。
 また、王柯によれば、新疆省省長は1940年代半ばまで当地の軍最高指揮官(督弁)を兼任し、いずれも漢民族出身者が就任した。
 また、新疆省政府<の>・・・指導者の交代も省政府内部の暗殺やクーデタによるもので、「この種の政権の交代劇においても、ウイグル人は何の役割も果たせなかった」という。
 しかし、入植した漢人人口が当時3000人程度であった新疆南部では、省政府の人事権が及ぶのは県レベルまでであり、県レベル以下の行政運営はウイグル人に任せられた。
 1911年の辛亥革命の勃発により、巡撫、イリ将軍、参賛大臣といった清朝の政治機構は廃止され、漢人の袁大化が新疆都督に任命されたが、イリの哥老会の圧力に恐れをなし、政治経験と軍事力を持つ楊増新が新たに省長として実権を握った。
 省長の下には、四庁一署(民生庁、財政庁、教育庁、建設庁、外交署)と呼ばれた行政機関が設置され、主として漢人官僚がそのポストを占めた。
 楊増新は軍の最高司令官である辺防督弁を兼任し、楊増新の暗殺後に新疆の実権を握った金樹仁<(前出)>も、省政府と軍のポストを兼任し、新疆を独裁的に統治した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%96%86%E7%9C%81

⇒このように、800年にわたって「自治」経験のなかったところの、ウイグル人、には、自ら統治する能力はないし、そもそもそうなったのは、自ら統治する意思が薄弱だったからだ、と言わざるをえない。
 というわけで、私は、ウイグル人の中共当局批判には、チベット人によるもの以上に同情を寄せる気にならない。(太田)
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(続く)