太田述正コラム#10977(2019.12.11)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その49)>(2020.3.2公開)

 「人は人生で多くの間違いをおかす。
 私の痛恨事の一つは、中国をみくびったことだ。・・・
 私は、中国人たちの臥薪嘗胆の思いに気づかなかった。
 何十年かけてでも目的を達成する中国人の潜在力と執念をみくびっていた。
 不覚不明を悔いるばかりだ。・・・
 中国は・・・富国強兵に猛進して、いまや日本は経済力において中国に凌駕されたばかりか、その・・・拡張主義<に基づく>・・・軍事的脅威にさらされている。・・・

⇒概ね私と同じような対中観の変遷を関岡も辿ったようであり、私の場合、そのせいで、つい最近まで支那史の勉強が比較的疎かになっていたため、今週末のオフ会「講演」原稿の作成「ごとき」にすら痛く苦労させられた、というわけですが、関岡と私とでは、「何十年かけてでも目的を達成する中国人」の目標が何であると見たか、が決定的に違っています。
 彼は、それを国の領土・勢力圏の拡張であってその手段は富国強兵である、と考えているのに対し、私は、中共当局にとっての目標は、(戦前の日本の島津斉彬コンセンサス信奉者達と同様、)アジア解放であってその手段は日本文明総体継受である、と考えているわけです。(太田)

 <かつて>私には、米国発のグローバリズムこそが最大の脅威に思えた。
 ソ連崩壊以降、日本の経済力が米国の主たる攻撃目標となった。
 米国の内政干渉と市場原理の暴走は、我が国の国民経済と社会の安寧を崩壊せしめ、中産階級を没落させて共産主義の温床を生む。
 野放図なアメリカ化は日本固有の価値観や我が国の国柄らを破壊する、と危機感に駆られた。

⇒ここは私も概ね同感です。 
 但し、関岡はそうは思っていないようですが、日本は米国の保護国(属国)なので、日本政府にあれこれ指図することは「内政干渉」でもなんでもありません。(太田)

 そして物書きに転業して、ブッシュ(子)政権の意を受けた小泉・竹中内閣の構造改革と、オバマ政権の意を受けた菅・野田内閣の「平成の開国」に徹底抗戦した。・・・

⇒民主党内閣の評価はともかく、小泉内閣の評価は関岡と概ね同じです。(太田)

 それは当時としては間違っていなかった、と今は思いたい。

⇒いや、当時も今もこの点では同じじゃなきゃいけません。(太田)

 だが時代は変った。・・・
 イデオロギーとしてのグローバリズムも、私のささやかな抵抗運動も、もはや時代遅れとなった。
 「市場」の時代が終わり、国家と民族の時代になった。

⇒そうではなく、ついに、日本文明の時代が目前に迫っているのです。(太田)

 安倍晋三の日本、トランプの米国、習近平の中国、プーチンのロシア、モディのインド、エルドアンのトルコなど、強力な民族は指導者に率いられた国民国家が、国益と安全保障をかけて覇権を争う時代になったことは、誰の眼にも明らかだ。

⇒日本文明の時代とは、支那が、そして望むらくは、支那と日本とが提携しつつ、至上にして最も普遍的であるところの、日本文明の全世界への平和的普及に努める時代であり、断じて、日本文明は、或いは、日本文明の担い手たる特定の国または国家群が、覇権を追求する時代では(その文明の中核としての人間主義に鑑みても)ありえないのです。(太田)

 東西冷戦に直面した米国も、遅まきながら、戦前日本が孤軍奮闘しつつ取り組んだ防共の意義を思い知ることとなった。
 だが、今さら「日本が正しかった」と認めるわけにはいかなかったのだろう。
 「戦前の日本は他国を侵略した邪悪な軍国主義の国だった」と歴史が改竄され、防共回廊構想は「無かったこと」として抹殺された。
 米国は、こともあろうにソ連と手を結び、日本を叩き潰して防共回廊を葬るという歴史的過ちを犯した。
 その結果、ソ連の影響圏がアジアに拡大して中国大陸、北朝鮮、北ベトナムが赤化し、米国と直接戦火を交えることとなった。
 組むべき相手を間違えた米国がそのために喪失した貴い命と国帑(こくど)ははかりしれない。
 防共回廊がもしも実現していれば、中華人民共和国と朝鮮民主主義人民共和国の成立も、朝鮮戦争もベトナム戦争も無かったであろう。
 なんという多くの人命が失われずに済んだことか。・・・」(327~332)

⇒この点は、関岡が一切変遷することなく、かつての私の見方をそのまま引きずって現在に至っているわけです。
 それは、私の言葉で言うなら、関岡が横井小楠コンセンサス的なものだけを見つめ、(同コンセンサスを包含するところの、)島津斉彬コンセンサス的なものがまだ目に入っていないからでしょう。
 後者が目に入れば、ソ連のスターリニズムと中朝越それぞれの「マルクス主義」とが似ても似つかないものであって、中共のそれに至っては、日本文明フェチシズムと言っても過言ではない代物であることに、関岡だって気付いた可能性があるのですが・・。
 とまれ、関岡の、日本を思い、その行く末を心配する真摯な姿勢には、心から敬意を表したいと思います。(太田)
 
(続く)