太田述正コラム#1025(2006.1.1)
<英国の悪人達(その1)>
(私のホームページの時事コラム欄は、2006年に対応していないことを発見しました。ホスティング会社に是正してもらうまでは、時事コラム欄には掲載できません。)
1 始めに
BBC History Magazineが、昨年末に11世紀から20世紀まで、各世紀ごとに英国の最大の悪人を一人ずつ、計10人を選んだ(http://www.guardian.co.uk/britain/article/0,2763,1674066,00.html(12月29日アクセス)及びhttp://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/4560716.stm(1月1日アクセス))
ので、ご紹介しましょう。
悪人達を通じて英国、とりわけイギリスの姿が浮き彫りになれば、乞うご喝采。
2 悪人達の紹介
(1)11世紀:Eadric Streona
イードリック(Eadric Streona。?1017年)はイギリス国王エセルレッド2世(Ethelred 2= Ethelred the Unready。968?1016年。在位978?1013年・1014?16年)http://en.wikipedia.org/wiki/Ethelred_II_of_England。1月1日アクセス)の重臣でしたが、1008年から1009年にかけてのバイキングの侵攻の際に侵攻側に内通し、1015年にデンマーク王家のクヌーズ(=カヌート=Cnut。995?1035年)(注1)が侵攻してくるとクヌーズ側に寝返ります。
ところが、エセルレッドが戦死してその息子エドムンド2世(Edmund 2=Edmund Ironside。989??1016年。在位1016年)(http://en.wikipedia.org/wiki/Edmund_II_of_England。1月1日アクセス)が後を継いで戦況の巻き返しに成功すると、イードリックは今度はエドムンド側に寝返ります。
1016年に一時、エドムンドとクヌーズはイギリスを分割して統治しますが、同年中に恐らくイードリックによってエドムンドは殺害され、その結果、クヌーズがイギリス全土を手中に収めます。そして翌年クヌーズは、勝ち馬に乗り換えるべく度重なる寝返りを行ったイードリックを処刑するのです。
(以上、特に断っていない限りhttp://cunnan.sca.org.au/wiki/Eadric_Streona(1月1日アクセス)による。)
(注1)1016年にイギリス王に就任、1018年には兄の死亡に伴いデンマーク王に就任、1028年にはノルウェー王にも就任し、三つの国王を兼ね、大王と称された。カヌートの死後7年でこの「帝国」は崩壊する(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%83%88%E5%A4%A7%E7%8E%8B。1月1日アクセス)
(2)12世紀:Thomas Becket
トマス・ベケット(Thomas Becket。1118??70年)はイギリス国王ヘンリー2世の重臣(国璽尚書)にして友人であり、当時フランスに大所領を有していた国王がフランスに出かけて留守の時は、ベケットがイギリスをまかされる、という間柄でした。
そこへヘンリーは好意で、1162年にイギリスにおけるカトリック教会の長であるカンタベリー大僧正に任命しようとします。
当時法王は、国王の破門権を持ち、国王は破門されると地獄行きが決定し、臣民は国王に従う必要がなくなる、というわけで、法王は国王よりも優位にありました。カンタベリー大僧正はイギリスにおける法王の代表ですから、ヘンリーにしてみれば、友人ベケットをイギリスのナンバー2以上の存在に引き立てようとしたわけです。
ヘンリーとしては、当時僧侶達は希望すれば国王の裁判所ではなく教会裁判所で裁判を受けることができたところ、教会裁判所では厳しい刑罰が科されない、という状況をベケットが打破し、国王によるイギリスの一元的支配(イギリス臣民の法の前の平等)を確保してくれることを期待していました。
ベケットは、自分がカンタベリー大僧正になれば「われわれの友情が憎しみに転化するだろう」と手紙に記して一旦は就任を固辞しますが、ヘンリーは譲らず、最終的にベケットは就任を受諾します。
このベケットの不吉は予言は的中し、大僧正に就任すると、ワインと乗馬と贅沢をこよなく愛したベケットは、生活態度を180度変え、法王に忠実な清貧を旨とする人物になり、1164年にヘンリーが、教会裁判所で有罪となり僧籍を剥奪された者に国王裁判所が改めて刑罰を科すことができる等の制度改正を盛り込んだ法律を制定(いわゆるクラレンドン憲章(Constitutions of Clarendon)。http://en.wikipedia.org/wiki/Constitutions_of_Clarendon(1月1日アクセス))すると、ベケットは、被疑者を二重の危険(double jeopardy)に晒すことになるとしてこれに反対し、激しい気性のヘンリーを懼れてフランスに亡命するのです。
その6年後の1170年に、ほとぼりがさめたと考えてベケットはイギリスに帰国するのですが、ベケットが、国王側についたヨークの大僧正の破門を法王に申請するに及んで、ヘンリーは「誰かこの厄介者の僧を始末してくれんか」と叫び、これを命令と受け止めた4人の騎士がカンタベリー大寺院でベケットを殺害します。
カトリック教会は、ベケットを聖人に叙し、ベケットが殺害されたカンタベリー大寺院は、イギリス最大の巡礼地になります。
ヘンリーは後悔し、クラレンドン憲章中、教会法に抵触する部分を撤回します。
この挫折したヘンリーの試みの成功は、ヘンリー8世による1534年のイギリス国教会の成立(カトリック教会からの離脱)を待たなければなりません。すなわちベケットは、イギリスの歴史の歩みを400年弱遅らせたことになります。
(以上、特に断っていない限りhttp://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Becket及びhttp://www.historylearningsite.co.uk/becket.htm(どちらも1月1日アクセス)による。)
(続く)