太田述正コラム#10983(2019.12.14)
<2019.12.14東京オフ会次第(その1)>(2020.3.5公開)

1 「講演」原稿に盛り込めなかった冒頭部分の原稿

 本日出席予定の皆さんに2日前に「講演」原稿未定稿をお送りしてあるところ、「幸いにも、その後、てにをは程度の訂正と見出し(従って目次)の微修正くらいしかしていない」、と申し上げたかったのだが、やや、大きい修正を加えたので、最初にお示ししておく。

旧:欧米諸文明(プロト欧州文明と広義の欧州文明と広義のアングロサクソン文明)における戦争は、長らく、ゲルマン人の大移動戦争・・これはゲルマン文化とローマ文明との抗争だった・・か、その延長としてのゲルマン人のリコンケスタ・・これはプロト欧州文明とイスラム文明との抗争だった・・か、ゲルマン人の地理的意味での欧州外における(遊牧民生息地域を含む)植民地獲得戦争・・これは欧米諸文明と非欧米諸文化/文明との抗争・・で、つまりは、異質の文化/文明の間の抗争、であり続け、同質の文化/文明/国の間の戦争ではなかった

新:欧米諸文明(プロト欧州文明と広義の欧州文明と広義のアングロサクソン文明)における戦争としては、ゲルマン人の大移動戦争・・これはゲルマン文化とローマ文明との抗争だった・・や、その延長としてのゲルマン人のリコンケスタ・・これはプロト欧州文明とイスラム文明との抗争だった・・や、ゲルマン人の地理的意味での欧州外における(遊牧民生息地域を含む)植民地獲得戦争・・これは欧米諸文明と非欧米諸文化/文明との抗争・・、といった、異質の文化/文明の間の抗争、も重要であり続け、同質の文化/文明/国の間の戦争ばかりではなかった

 さて、本題に入るが、本来は、本日、日本の弥生性について語るつもりだった。
で、日本の弥生性について考え始めたのだが、支那のものを継受した、軍事制度を含む中央集権制が崩れる過程で日本で武士が誕生し、爾後、その武士が日本の弥生性の担い手になったというところで、早くも行き詰った。
 継受元の支那ではどうしてそうならなかったのか、どうして、弥生性が日本に比べて脆弱なまま推移したのか、を、まず調べる必要があることに気付いたからだ。
 そこで、支那について調べ始めたのだが、支那史がそもそも停滞的な歴史である上に、弥生性の脆弱さというのは、その負の側面であり、何とも私の士気が上がらなかったことに加え、私の支那史に関する知識が不十分であったため、時間不足で、今回のオフ会「講演」原稿は、問題意識に対する解答を導き出すための素材を並べた素材集といった趣のものにとどまってしまった。
 このことを、まずはお詫び申し上げておきたい。
 解答はこの素材集を整理した上で凝縮する形で導き出す必要がある。
 そもそも、素材の中には、更に精度を高めなければならないものだってある。
 というわけで、支那に係る解答は、次回のオフ会で、日本の弥生性について語る際に、そのマクラの中で、もう少しマシな形で、(できればだが、)お示しすることとしたい。
 で、本日は、支那に係る解答の方向、という感じのユルイお話をすることをお許し願いたい。
 原稿冒頭で紹介した、サーチナ記事なのだが、話が尻切れトンボであることに気付かれただろうか。
 中央集権制そのものが悪いワケがないのに、どうして、支那においては中央集権制が弥生性の毀損というか、偏頗な弥生性をもたらしたか、が、書かれていない、という意味で・・。
 で、本日の話で、そのことについて私が言いたかったのはこういうことだ。
 (今にして思えば、最初から、そういう問題意識を鮮明に打ち出す形で、「講演」原稿を執筆すべきだった。)
 武士団においては、その領袖も郎党達もその地位・役割に応じて軍事に熟達するインセンティヴが自ずから備わっているけれど、中央集権制下の兵士に対しては他律的にかかるインセンテイヴを注入しなければならず、そのためには、中央政府が、兵士候補者の募集/徴兵機構と募集/徴兵した兵士候補者を兵士に仕立て上げる教育訓練機構とを整備する必要がある。
 また、当然のことながら、彼らに使わせる武器を製造/調達する機構も整備する必要がある。
 それには優秀な軍事官僚群が必要なわけだが、彼らは、仕立て上がった兵士達を実戦で率いる将軍/将校としての役割を担うためにも必要だった。
 ところが、支那では、どの王朝でも、募集/徴兵機構はお粗末だったし、教育訓練機構はなきに等しかった。
 また、軍事官僚は非軍事官僚よりも低いステータスと権限しか与えられなかったため、優秀な軍事官僚を確保することができなかった。
 こういうことになってしまった責任は、第一に、最も長期にわたったところの、漢人文明世界の分裂を解消して再統一を果たした秦の始皇帝の軍事政策にある。
 そして、第二には、秦滅亡後に、この始皇帝の軍事政策を含む諸政策を規範化してしまった、漢・・前漢の方だが・・にある。
 その結果、生業に従事することが即軍事の熟達に繋がったところの、遊牧民達の集団の襲撃を受けた時に、爾後の漢人諸王朝は十全な軍事的対応を行えず、やがて、遊牧民集団の中には襲撃先に留まり、領域的支配を始めるものが出てきて、どんどんその支配領域が広がって王朝側が完全に征服されることまで生じた。
 しかし、この過程で、遊牧民集団は漢人文明継受を始め、それに伴って上述の規範も当然視するようになり、その結果、その集団の弥生性がどんどん毀損していくのが通例であり、既存王朝を征服してしばらく経つと、その弥生性の毀損度は、既存王朝のレベルに達してしまう。
 更にその結果、この漢人文明継受を果たした新王朝(新漢人王朝)もまた、新たな遊牧民集団の襲撃を受け・・、ということになり、この、いわば無限ループが繰り返されたのが支那の歴史である、と言ってよい。
 以上を頭に入れていただき、これから先は、原稿中の数か所をピックアップしてご説明し、私の本日の話を終えることとしたい。
 その前に、技術的なことを述べておく。
 原稿では、人名等にカナをふっており、大体は邦語ウィキペディアの表記を採用しているのだが、遊牧民集団の指導者達については、邦語ウィキペディアにの多くに、呉音でのカナと漢音でのカナが併記されていたところ、呉音の方のカナを用いている。
 呉音、漢音、そして唐音の違いについては、以下の通りだ。↓

 「呉音(ごおん)とは、日本漢字音(音読み)の一つ。遣唐使などが当時の長安付近の発音(漢音)を学び持ち帰る以前にすでに日本に定着していた漢字音をいう。・・・
 いつから導入されたものかは明確ではない。雑多なものを含むため、様々な経路での導入が想定される。仏教用語などの呉音は百済経由で伝わったとされるものがあり、対馬音や百済音といった別名に表れている・・・。
 慣用的に呉音ばかり使う字(未〔ミ〕、領〔リョウ〕等)、漢音ばかり使う字(健〔ケン〕、軽〔ケイ〕等)も少なくないが、基本的には両者は使用される熟語により使い分ける等の方法により混用されている。
 呉音は仏教用語や律令用語でよく使われ、漢音導入後も駆逐されず、現在にいたるまで漢音と併用して使われている。『古事記』の万葉仮名には呉音が使われている。・・・
 唐代、首都長安ではその地域の音を秦音と呼び、それ以外の地域の音、特に長江以南の音を「呉音」とか「呉楚之音」と呼んでいた。帰国した留学生たちが、これにもとづいて長安の音を正統とし、日本に以前から定着していた音を呉音と呼んだものと考えられる。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E9%9F%B3
 「鎌倉時代になると、臨済宗や曹洞宗の僧侶によって、再度、<漢>語の読み方が日本へ伝えられました。これが唐音です。・・・
 唐音は、和尚(おしょう)・行脚(あんぎゃ)・看経(かんきん)・庫裏(くり)・法堂(はっとう)・東司(とうす)・吊灯(ちょうちん)のように、多くは単語の形で導入されました。・・・」
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=5&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjvv-av37LmAhWMGaYKHfgWCfcQFjAEegQIBBAB&url=http%3A%2F%2Ftobifudo.jp%2Fnewmon%2Fokyo%2Fgoon.html&usg=AOvVaw184NdV5OrMZ76BJQfObHMt

 <付け足し>

 李陵の囲み記事の参考。↓

 族滅:「明の方孝孺は、建文帝に重用された恩義から永楽帝の帝位を認めなかったため、面前で一族800人余りを処刑されたのち自身も処刑され、著作をすべて焼き捨てられた上に彼の門下生までも処刑・流罪となった。この事件は「滅十族」と呼ばれた。
 日本においては、豊臣秀次の切腹の際に眷族が処刑されたほか、慶安の変において首謀者の由井正雪や丸橋忠弥の親族が事件とは無関係であっても処刑された。また、伊達騒動では首謀者の一人である原田宗輔<(原田甲斐)>の死去後、事件に全く関与していない子や孫はおろか、養子に出された者や乳幼児を含め全員を死罪にして原田家の血筋を根絶やしにしている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%8F%E8%AA%85

 蘇武:前140頃?~前60年。「単于から帰国の許可が出<て、>・・・前81年・・・に彼は漢に帰還し、典属国を拝命した。母は死んでおり、妻は既に他の者に嫁いでいた。後に、蘇武の子の蘇元が反乱を企んだ上官桀らに連座して処刑され、上官桀や桑弘羊と仲が良かった蘇武も逮捕されそうになったが、霍光がやめさせ、免官だけで済まされた。
 宣帝擁立に関与し、関内侯の位を賜り、張安世の薦めにより右曹・典属国に返り咲いた。・・・前60年・・・、蘇武は80歳余りの高齢で亡くなった。
 死ぬ以前、宣帝は蘇武が子の蘇元を失っていることを哀れみ、匈奴で軟禁された時に匈奴の女性との間に生まれた子の蘇通国を漢に呼び寄せて郎とした。・・・
 蘇武の事跡等に関しては『漢書』蘇武伝がある他に、『文選』に李陵が蘇武に与えた詩3首と蘇武に答えた書と共に、蘇武の詩が4首収められている。蘇武と李陵の贈答の詩については、宋期の厳羽が記した『滄浪詩話』に「五言詩は李陵・蘇武に起こる」と記されている。中島敦の小説『李陵』にも蘇武が描写されている。
 ただし、蘇武・李陵の詩が後世の仮託であるという説も有力である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%AD%A6

(続く)