太田述正コラム#10987(2019.12.16)
<丸山眞男『政治の世界 他十篇』を読む(その28)>(2020.3.7公開)
[丸山眞男と学士助手]
1 始めに
随分時間が経ってしまいましたが、表記シリーズに戻る運びになったところ、この際、丸山との関係で学士助手制度を取り上げておきたいと思います。
後で、丸山自身が学士助手になる前後の話はするとして、取敢えずは、本編を始めたいと思います。
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3 丸山眞男と学士助手
丸山の青年時代を振り返ってみましょう。
「東京府立第一中学校(現・都立日比谷高校)を経て、1931年(昭和6年)4月、旧制一高に進学。
⇒丸山は、私の、「高校」、「大学」、の先輩である、ということになります。
今は亡き先輩を貶してばかりの不肖の後輩をお許しあれ。(太田)
1933年(昭和8年)4月10日、本郷仏教青年館で開催された唯物論研究会の講演会に参加。同講演会は警察の命令により、長谷川如是閑<(注33)>が挨拶を始めるや否や解散。聴衆の一人であった丸山は本富士警察署に勾留され、特高の取り調べを受ける。
(注33)1875~1969年。「東京法学院(中央大学の前身)・・・邦語法学科・・・を卒業・・・
朝日新聞社を<経て>・・・フリージャーナリスト・・・
東京帝大助教授であった森戸辰男が無政府主義者クロポトキンの研究によって起訴された1920年(大正9年)の森戸事件においては、学問の自由・研究の自由・大学の自治を主張して、同誌上で擁護の論陣を張った。
吉野作造、大山郁夫とともに、大正デモクラシーを代表するジャーナリストとして、大正から昭和初期にかけて、進歩的、反権力的な論陣を張った。この時期のこの手の著作として、『現代国家批判』『日本ファシズム批判』がある。なかでも、ファシズム初期の段階で、他者に先駆けてファシズム批判を行ったことは注目される。
1929年(昭和4年)・・・『日本ファシズム批判』を著すかたわら日ソ文化協会の会長となっている。1936年(昭和11年)の二・二六事件に際しては『老子』を著し、また『本居宣長集』を編集している。さらに翌年の日独伊防共協定の折には・・・『日本的性格』を刊行した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5%A6%82%E6%98%AF%E9%96%91
⇒長谷川は日本人大宗の人間主義者だったけれど、考える人間主義者だったから、自然と、アナーキズムに惹かれ、マルクス主義に惹かれ、そして、その場合、よくあるケースですが、スターリン主義をマルクス主義、ひいては人間主義だと誤認した、ということでしょうね。(太田)
1934年(昭和9年)に一高を卒業後、東京帝国大学法学部政治学科に入学。「講座派」<(注34)>の思想に影響を受ける。
(注34)「明治政府下の日本の政治体制は絶対主義であり、また当時の社会経済体制の実態は半封建的地主制である、と捉え、天皇制を打倒するブルジョア民主主義革命が社会主義革命に強行的に転化する、とする「二段階革命論」を唱えた。これはコミンテルンの32年テーゼを擁護するものとなり、当時の日本共産党の基礎理論となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AC%9B%E5%BA%A7%E6%B4%BE
⇒しかし、丸山は、根っからのスターリン主義かぶれであったと見ていいでしょう。(太田)
1936年(昭和11年)、懸賞論文のために執筆した「政治学に於ける国家の概念」が、第2席A(第一席該当なし)に入選。『緑会雑誌』8月号に掲載される。これが認められて助手採用に内定する。
1937年(昭和12年)、大学を卒業し、南原繁の研究室の助手となる。
本来はヨーロッパ政治思想史を研究したかったが、日本政治思想史の研究を開始した。1940年(昭和15年)、「近世儒教の発展における徂徠学の特質並びにその国学との関連」を『国家学会雑誌』(54巻2-5号)に発表。6月、東京帝国大学法学部助教授となる。
⇒この部分については、すぐ後で改めて取り上げます。(太田)
1941年、「近世日本思想史における「自然」と「作為」-制度観の対立としての」を『国家学会雑誌』<(注35)>に発表。
(注35)「国家学会は東大法科(法学部)内部の公法学・政治学・経済学の研究者団体(その後さらに経済学プロパーの団体として社会政策学会が分化)<であり、>・・・機関誌として『国家学会雑誌』を発行し現在に至っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E5%AD%A6%E4%BC%9A
1944年(昭和19年)3月、小山ゆか里と結婚。
7月、「国民主義理論の形成」を『国家学会雑誌』に発表(後に「国民主義の「前期的」形成」と改題)。
⇒「注35」から分かるように、『国家学会雑誌』は、名前はともかく、学会誌ではなく、掲載「論文」は、競争下でピアレビューを経たものではなく、東大法の教官であれば無条件に掲載される「作文(雑文?)」集に過ぎません。
助手になってから助教授のこの時点までに丸山が書いた3篇の「論文」は、あんまりな言いようだと思われるかもしれませんが、いずれも、そういう意味で、僻地の多学級一教室小学校の児童達のうち、殊勝にも作文を書く意欲はあって、自分では一応その能力もあると思い込んでいる者達が手製で作った文集に載った、身辺雑記、的なものでしかありません。(太田)
同年7月、大学助教授でありながら、陸軍二等兵として教育召集を受けた。大卒者は召集後でも幹部候補生に志願すれば将校になる道が開かれていたが、「軍隊に加わったのは自己の意思ではない」と二等兵のまま朝鮮半島の平壌へ送られた。9月、脚気のため除隊決定。11月、応召より帰還。
1945年(昭和20年)3月、再び召集される。広島市の船舶通信連隊で暗号教育を受けた後、宇品の陸軍船舶司令部へ二等兵として配属された。4月、参謀部情報班に転属。丸山は連合通信のウィークリーをもとに国際情報を毎週報告。入手した情報を「備忘録」と題するメモに残す。8月6日、司令部から5キロメートルの地点に原子爆弾が投下され、被爆。1945年(昭和20年)8月15日に終戦を迎え、9月に復員した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E7%9C%9E%E7%94%B7
⇒丸山は、スターリン主義かぶれとして、その敵である日本帝国の軍隊に勤務することをよしとせず、一種の良心的徴兵拒否をした気持ちだったのでしょうが、将校にならなかった結果、軍事官僚機構の末端での勤務しか経験できなかったのですから、まともな軍隊勤務を経験することができなかっただけでなく、まともな官僚勤務を経験する機会も併せて、自ら放棄した、ということになります。
(法人化するまでの東大の教官だって形式的には官僚ですが、「教育研究」者としてのキャリアだけではまともな官僚勤務を経験することはできません。丸山は学部長にすらなっていない(上掲)のですからね。)
軍事についても行政についても土地勘がないことは、私に言わせれば、政治学者として、致命的と言ってよいほどのハンデを丸山が(自分で勝手に)負ったことを意味するというのに・・。(太田)
(続く)