太田述正コラム#10989(2019.12.17)
<丸山眞男『政治の世界 他十篇』を読む(その29)>(2020.3.8公開)

 さて、私が、すぐ後で取り上げる、と書いた部分↓についてです。

 「・・・1936年(昭和11年)、懸賞論文のために執筆した「政治学に於ける国家の概念」が、第2席A(第一席該当なし)に入選。『緑会雑誌』8月号に掲載される。これが認められて助手採用に内定する。
 1937年(昭和12年)、大学を卒業し、南原繁の研究室の助手となる。
 本来はヨーロッパ政治思想史を研究したかったが、日本政治思想史の研究を開始した。1940年(昭和15年)、「近世儒教の発展における徂徠学の特質並びにその国学との関連」を『国家学会雑誌』(54巻2-5号)に発表。6月、東京帝国大学法学部助教授となる。・・・」

 まず、「緑会」というのは、東大法学部の学生自治会のことです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%91%E4%BC%9A
 駒場(教養学部)の自治会は、東大紛争の時、私のクラスの多数決で同自治会のクラス代議員を改選し・・私自身が代議員になった・・、自治会総会でスト中止を決定させたこともあり、よく知っていますが、法学部に進学してからは、自治会(緑会)の存在こそ知っていたけれど、それに係る如何なる記憶も残っていないような存在です。
 そもそも、極めて不活発な自治会であって、『緑会雑誌』(戦前は『緑會雑誌』)
https://ci.nii.ac.jp/ncid/AN00335287
なるものの存在すら記憶が定かではありません。
 そんな自治会の仲良し会誌的なものに載った、論文ならぬ文字通りの作文が、丸山のウィキペディアに載っているということは、本人が「大家(たいか)」になってから懐かしく語っていたことを、周りの人が尾ひれを付けた可能性が高いと思われるけれど、それが、当時の同僚学生達の眼にも一等賞に値しない作文としてしか評価されなかったというのですから、嗤ってしまいますが、学者云々以前に、著述家としての丸山の資質はその程度であった、ということではないでしょうか。
 いずれにせよ、そんな作文が、丸山が学士助手になるきっかけになったり一助となったりすることなどありえないのであって、繰り返しますが、単に、丸山が法学部時代の成績が良く、しかも、政治学関係の教科を沢山取っていて、だけれども、官界に入ることなく、学部側から、特定の教官を通じて、学士助手にならないか、との誘いがあり、それに乗ったから学士助手になった、というだけのことだったはずです。
 で、丸山を引っ張ったのは南原繁(1889~1974年)であったと思われるところ、南原は、研究者としては政治学史専攻ですが、法学部卒業後、6年半、内務省で官僚勤務をしてから東大法に戻った人物である
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8E%9F%E7%B9%81
というのに、丸山に対しても、同じく南原が引っ張ったと思われる福田歓一(上掲)(1923~2007年)・・丸山より10学年若い・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%94%B0%E6%AD%93
に対しても、役所勤務をした上で、やはり政治学者になりたかったので、東大に戻る、という自分の辿った道を歩ませようとした形跡がないのは残念です。
 (丸山の場合、示唆されても拒否した可能性や、拒否しなかったとしても逮捕歴があるので不可能だった可能性がありますが、福田にはその類の「障害」はなかったはずです。)
 さて、そんな丸山に南原は日本政治思想史の研究を命じたわけですが、言うまでもなく、丸山に拒否権などありません。
 助手の時に南原のお眼鏡にかなわなければ、助教授になることはできず、他大学への転出を余儀なくされ、「成功」が確約されない、「学者」としての厳しい競争に晒されることになるからです。
 そこで、3年近くかけて、丸山は荻生徂徠を研究した「論文」・・後に『日本政治思想史研究』に第1論文として収録・・
http://www.utp.or.jp/book/b299729.html
を書き、目出度く助教授に昇任し、定年までの終身雇用権を獲得するわけです。
 本シリーズ完結以降、「『日本政治思想史研究』を読む」シリーズも、私、予定していないわけでもないところ、この際、ちょっとだけですが、この「論文」にも触れておきましょう。
 この論文について、子安宣邦は、「丸山氏は、ヨ-ロッパ・キリスト教的世界において神が営む役割を徂徠の聖人にあてがうことによって、中世的な自然的秩序観に対立する作為的秩序観を徂徠学から読み込もうとした。」的なことを言っていますし、王青は、「西洋的近代における「個人的主体性」の成立を唯一な価値基準として、朱子学や徂徠学に当てはめ、朱子学や徂徠学における概念範疇の西洋的それとの類似性の度合いによって、その思想的意味を評価しようとした」と指摘しています
http://www.soc.hit-u.ac.jp/research/archives/doctor/?choice=summary&thesisID=13
が、私見では、そういう論文を丸山が書いたのは、個人主義のイギリスにおいて生まれた政治学を基調とし、アングロサクソン文明継受を近代化と称してきた(コラム#省略)ところの欧米政治学史の(私に言わせれば、翻訳紹介業者たる)「研究者」にしてキリスト教徒であった南原
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8E%9F%E7%B9%81
・・ちなみに、福田歓一もキリスト教徒です・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%94%B0%E6%AD%93 前掲
が最も喜びそうな(子安や王が要約した)趣旨のことに近いことを言っていると牽強付会できそうな日本の思想家を物色することを思いつき、徂徠に白羽の矢を立て、その思想をデフォルメすることによって、あたかも徂徠が本当にそういう趣旨のことを主張したかのような論文をでっち上げた、と私は見ているのです。
 しかし、たまたま、そんな論文から、「学者」としてのスタートを切ることとなった丸山は、爾後、この、自らが創り出した虚構の世界を一歩も出ない「学者」人生を送ることになった、というか、送ることを余儀なくされた、のであるとも・・。
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(続く)