太田述正コラム#10991(2019.12.18)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その1)>(2020.3.9公開)

1 始めに

 丸山眞男に関し、表記を並行してシリーズ仕立てで進行させることにしました。
 以下の、2、3・・・、は、本書に収録された論文の表題です。

2 福沢諭吉の儒教批判(1942年)

 「幕末から明治初期にかけての最大の啓蒙思想家、福沢諭吉がその「洋学」を以て一方新日本建設の素材となるべき欧州市民文化の移入普及と、他方国民に深く根を下ろした封建意識の打破とに、渾身の力を注いだとき、そうした彼の意図の前に最も強靭な障壁として立ちはだかったのは、実に儒教思想であった。・・・
 <諭吉曰く、>「古習の惑溺を一掃して西洋に行はるる文明の精神を取」(文明論之概略、巻之一)<るべし、と。>・・・」(7~9)

⇒諭吉を「幕末から明治初期にかけての最大の啓蒙思想家」と形容することの是非については後で論じることにしますが、引用されている福沢の言を、丸山は、一体どうして、冒頭の一文のように解したのでしょうか。その理由も根拠も丸山は示してくれていません。この「福沢諭吉の儒教批判」なる「論文」を読めば、丸山なりにそう考えた理由や根拠が明らかになる、と、信じて先に進みましょう。(太田)

 「諭吉<は>一方に於て、「徳川の治世三百年年の其間に儒者は直に世事に当るを許さず、唯僅に学校教授の用に充(あつ)るのみにして学問を軽んずるの世に学校の教授は最も無力なれども封建の大勢は儒者を容れず、社会緊要の大事は武人と俗吏との司る所と為りたるも亦以て儒教の勢力の微々たるを徴するに足る可し」(徳教之説<(注1)>、全集九)として儒教の政治的社会的影響力について消極的見解を持しながら、他方明治30年に及んでなお「今世の人が西洋文明の学説に服しながら尚ほ其胸中深き処に儒魂を存」することを指摘して、「儒魂の不滅」を痛歎せねばならなかった(福翁百話)・・・。」(9)

 (注1)1883年。
https://blechmusik.xii.jp/d/hirayama/comment_on_sugita_satoshi_2010/04/

⇒諭吉は、「儒教の政治的社会的影響力について消極的見解を持し」ていたのであれば、諭吉にとって、「古習」が、丸山の言う「儒教思想」を指していなかったのは明らかでしょう。
 丸山の冒頭の一文が間違っていることを丸山自身が認めてしまっている格好です。
 にもかかわらず、諭吉が、『文明論之概略』(1875年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%98%8E%E8%AB%96%E4%B9%8B%E6%A6%82%E7%95%A5
の中で使った「古習」に代えて、『福翁百話』(1897年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%BF%81%E7%99%BE%E8%A9%B1
の中では、「儒教思想」と紛らわしい「儒魂」という言葉を使っているわけですが、それがどうしてか、という観点からの諭吉の「古習」論の追求を、果たして、丸山はやってくれるのでしょうか。(太田)

 「こうして「独立自尊」の市民的精神のための諭吉の闘争は必然に儒教乃至儒教的思惟に対する闘争と相表裏することとなった。
 「日本国中の漢学者は皆来い乃公(おれ)が一人で相手にならうといふやうな決心」で「腐儒の腐説を一掃して遣らうと若い時から心掛け」(福翁自伝)て以来、「我輩の多年唱道する所は文明の実学にして支那の虚聞空論に非ず、・・・之を信ぜざるのみか、其非を発(あば)き其妄を明にして之を擯(しりぞ)けんとするに勉むる者なり。…
 <私は>古来の学説を根底より顚覆して更らに文明学の門を開かんと欲する者なり。
 即ち学問を以て学問を滅さんとするの本願にして畢生の心事は唯こゝに在るのみ」(福翁百話)という晩年の告白の示す様に、反儒教主義は殆ど諭吉の一生を通じての課題をなしたのである。

⇒『福翁自伝』(1899年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%BF%81%E8%87%AA%E4%BC%9D
も『福翁百話』同様、(丸山自身が記しているように、)諭吉の「晩年」の著作ですが、諭吉は1835から1901年まで生きたところ、『文明論之概略』や「徳教之説」を書いた壮年期における「古習」から晩年期の「儒魂」へと言葉遣いが変化しただけでなく、諭吉自身の儒教に対する考えそのものが、その晩年期には壮年期とは異なったものになっていた可能性があるのであって、その可能性を潰さない限り、「反儒教主義は殆ど諭吉の一生を通じての課題をなした」とは言えないでしょう。
 あえて、更に踏み込んで言えば、死の2年前~4年前の著作の「執筆」時に諭吉が耄碌していた、或いは、少なくとも、もはやかつての諭吉ではなくなっていた、可能性すらあるというのに・・。(太田)

 しかしやや立入って彼の儒教批判を跡づけて行くと時代の推移による自(おのずか)らのニュアンスを見出すに難くない。」(10)

⇒おお、さすがに丸山、ディスクレーマーを付けましたね。
 私自身は、丸山が弱音を吐いた、と受け止めているのですが・・。(太田)

(続く)