太田述正コラム#1029(2006.1.4)
<キリスト教と私(その8)>
もうお分かりですね。
スタークの、資本主義(近代)・キリスト教(カトリシズム)起源説の出現は、このところ、プロテスタントの原理主義化と中南米からのカトリック教徒たる移民の増大による米国社会の非世俗化への退行を反映しているのです。
つい最近も(コラム#1024で)申し上げたように、米国人の信心深さは先進諸国の中では際だっており、何と米国の10人に9人が神の存在を信じています。
幸いなことにこの数字は、科学者となると4人に1人、米科学アカデミー会員たるエリート科学者ともなれば、10人に1人まで低下します。特に生物学者は神の存在を信じている人が少なく、20人に1人しかいません。
(以上、http://www.nytimes.com/2005/12/11/magazine/11wwln_lead.html?pagewanted=print(12月17日アクセス)による。)
スターク自身は、自分は決して普通言うところの宗教的な人間ではない、と言っています(http://www.nytimes.com/2005/12/30/books/30book.html?pagewanted=print前掲)が、これは韜晦しているだけのことであり、スタークがいわゆるインテリジェント・デザイン(Intelligent design)論に近い立場をとっている(http://www.taemag.com/issues/articleid.18132/article_detail.asp。12月28日アクセス)ことからすれば、彼は明らかに神の存在を信じているのであって、米国の学者の中では少数派に属します。
そのスタークの本が米国で大いに売れるのは間違いないでしょう。
スタークの説について口角泡を飛ばす米国の人々の熱気を、関連ブログ(http://amywelborn.typepad.com/openbook/2005/12/catholics_and_c.html前掲)を一瞥しただけでも感じとることができます。
4 日本の使命
このように、キリスト教は、依然非寛容であり、また引き続き独善的な歴史認識を生み出しています。これは、キリスト教以外の一神教にもあてはまると考えられます。
これも繰り返し私が訴えてきたことですが、日本の最大の使命の一つは、欧州諸国や英国と連携して、カトリシズムやプロテスタンティズム、より広くはキリスト教やイスラム教の世俗化を推進し、これらの宗教から非寛容性や独善性を払拭することです。
そのためにも、日本の学者がもっともっとキリスト教やイスラム教の生誕等について歴史的研究を行うことが望まれます。生誕等の歴史を明らかにすることは、神秘のベールをはがすことであり、これらの宗教の世俗化に資するからです。
私は、東大一年の時に、高校の日本史の教科書の著者としてなじみがあった笠原一男教授(http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%8A%7D%8C%B4%88%EA%92j/list.html)が浄土真宗等の研究家であることを知り、笠原さんの親鸞についてのゼミをとってみました。
その折笠原さんが、浄土真宗だろうが仏教だろうが、まるで信じておられないことを知り、(自分自身が宗教的な人間ではないことを棚に上げて)不愉快に思ったことがあります。
しかし、今振り返ってみると、宗教研究者が、研究対象たる宗教を信じているとすれば、研究が及び腰になったりバイアスがかかったりするのが避けられないはずであり、笠原さんの姿勢を不愉快に思った自分の方が間違っていたと思います。
そうだとすると、イスラム教徒はイスラム教を学問的に研究することが許されないために、結果的に非イスラム教徒だけがイスラム教を研究している現状は(キリスト教徒たる一神教の信徒がその研究者の大部分を占めている点はさておき、)正常だけれど、もっぱらキリスト教徒がキリスト教の学問的研究を行っている現状は極めて異常だ、ということになります。
歴史上の人物としてのイエスのことがほとんど分かっていない(http://www.slate.com/id/2132974/entry/2133006/。12月22日アクセス)こと一つとっても、キリスト教の歴史的研究は極めて不十分であると言わざるをえませんが、その背景には、キリスト教徒たる研究者達の及び腰とバイアスがあるからではないか、と私は思うのです。
だからこそ私は、日本の研究者に期待するのです。
(完)