太田述正コラム#10993(2019.12.19)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その2)>(2020.3.10公開)

 「・・・以下に於ては、ほぼ明治14・5年を境として前期と後期に大別しつつ、その各々の時代に於ける儒教批判とその推移を、概観してみよう。・・・
 前期・・・の時代に於ける諭吉の活動が儒教に対する闘争を最大の課題とし、いな殆ど唯一の目標としていた事は自伝からも知られるが、就中、明治15年に於ける彼の次の様な回顧に最も集約的に表現されている。

⇒私の予想を裏切って、諭吉は壮年期の方が晩年期よりも一層反儒教的であった、と丸山が主張していることには、率直に言って驚きました。
 眉唾ですが、先に進めます。(太田)

 「・・・士族学者と称するものにても、其心事の卑屈なる誠に見えるに堪へざる者多し。
 数百年来儒者の数を以て育したる此士君子にて斯る有様なりとは畢竟、儒流の教育は頼むに足らず。
 儒流頼むに足らざれば儒者の主義中に包羅する封建門閥の制度も固より我輩の敵なり、之も破壊せざる可らず、と覚悟を定めて専ら儒林を攻撃して門閥を排することに勉めたり」(掃除破壊と建置経営、全集20巻)
 すなわち諭吉にとって儒教攻撃は、彼が「親の敵(かたき)」とまで憎悪した封建門閥制度の徹底的掃討の問題と一にして二ではなかった<のであって、>・・・要するに思想をその論理性よりはむしろその機能性に於て問題とする所にその特徴がある。」(10~12)

⇒諭吉が、「卑屈」であること、や、「封建門閥」、を「敵(かたき)」と見ているのは確かではあっても、それを諭吉が「儒流」や「儒者」と結びつけているからといって、丸山のように、それらを「儒教に対する闘争」である、と総括するのはいかがなものでしょうか。
 丸山自身、儒教をそのようなものと考えているのかもしれませんが、そのような考えは必ずしも正しくないからです。
 儒教は、表向きは封建制を賞揚しているけれど、儒教を事実上の国教としたところの、武帝期の漢以降の支那の歴代王朝において、封建も門閥(貴族)も、基本的に否定され続けた(コラム#10982)ことからすると、儒教には、むしろ、封建制や門閥制度を抑制し、中央集権制を助長するモメンタムが内在している、と見る方が自然であって、そう見てこそ、幕末期の日本で、おしなべて儒教を学ばされていた武士達の多くが尊王討幕
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8A%E7%8E%8B%E5%80%92%E5%B9%95%E8%AB%96-1357395
へと駆り立てられた所以の一つが説明できる、というものでしょう。
 丸山ならいざ知らず、さすがにそんなことが諭吉に分かっていないはずがないのですから、諭吉がここで儒教(「儒流」や「儒者」)を持ち出したのは、何か非論理的な怨念が彼にそうさせたと見るほかありますまい。
 前にも記した(コラム#省略)ように、諭吉は、彼が小さい時に亡くなった父親が儒学オタクであったけれど、ついに日本の「儒者」達に認められることなく失意のうちに生涯を終えたことから、「儒者」達に強い恨みを抱くに至ったと考えられるのであって、だからこそ、諭吉は、唐突に、しかも不必要に、儒教を持ち出しては「儒流」や「儒者」を謗る癖がついてしまったのではないか、というのが私の想像です。
 「卑屈」という言葉ですが、諭吉が、それを(諭吉にとってにっくき)「士族学者」達に対して限定する形で使っていて、日本の「士族」一般に対しては使っていなさそうであることも、この私の想像のもっともらしさを裏づけるものです。
 そもそも、儒教が、主筋の人に対しておしなべて部下達を卑屈にするものであるとすれば、薩摩藩と長州藩が、それぞれの藩主達の了解の下で重臣達が薩長同盟(1866年)を結んで(天皇と将軍の合意に基づく)公武合体体制の打倒に着手したり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E9%95%B7%E5%90%8C%E7%9B%9F
御三家の尾張藩の藩主格(徳川慶勝)が、天皇のお墨付きを得て将軍が命じた第二次長州征伐(1866年)に反対し、自藩の出兵を拒否したり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%8B%9D
するわけがありません。
 そのようなことは言わずもがなであり、そもそも、幕府の公定学説であった朱子学の家元の朱子は、「五経の一つ『礼記』に「君臣義合、父子天合」という言葉がある<ところ>、朱熹も・・・君臣関係は義合であるという立場に立<ち、>「義の合せざるときは、すなわち去る」<べし、と唱え、易姓>革命・・・に<も>賛成の立場に立<っていた>」
http://telhewga.blog25.fc2.com/blog-entry-93.html?sp
のですからね。
 朱子学に関しては、丸山はもとよりですが、この公定学説の下で青年期までを送った諭吉まで、余りよく知らないのではないか、という気が、私にはしてきました。(太田) 

(続く)