太田述正コラム#10997(2019.12.21)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その4)>(2020.3.12公開)
「政府の専制、これを教<(おしえ(?太田)>る者は誰ぞや。
仮令ひ政府本来の性質に専制の元素あるも其元素の発生を助けて之を潤色するものは漢儒者流の学問に非ずや。
古来日本の儒者にて最も才力を有して最もよく事を為したる人物と称する者は、最も専制に巧にして最もよく政府に用ひられたる者なり。
此一段に至ては漢儒は師にして政府は門人と云ふも可なり。
憐む可し、今の日本の人民誰か人の子孫に非ざらん。
今の世に在て専制を行ひ又其専制に窘(くるし)めらる丶ものは独(ひと)り之を今人の罪に帰す可らず、遠く其祖先に受けたる遺伝毒の然らしむるものと云はざるを得ず。
而して此病毒の勢を助けたる者は誰ぞや、漢儒先生も亦預て大に力あるものなり。(学問に権なくして却て世の専制を助く)「<「文明論之概略」>巻之五)
⇒このようなくだりだって、官学は御用学者を生み出すと腐すことで、私学、就中、自分の慶應義塾、の宣伝を諭吉が執拗に行っている、と見るべきなのです。
林羅山(1583~1657年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E7%BE%85%E5%B1%B1
くらいなら挙げても、誰しも彼を御用学者だと思っているでしょうからよろしかろうに、諭吉が、この文脈の中で、一切、具体的な日本の儒者の名前を挙げていないのは、私がかねてより口を酸っぱくして嗜めているところの、典拠なき主張以外の何物でもありませんが、それは、自分が典拠薄き非科学的議論(宣伝)を行っていることを、諭吉が自覚していたからこそでしょうね。
しかし、まことに罪作りなことに、諭吉の言説は、何事によらず、維新日本において大いに持て囃されたことから、『文明論の概略』等の読者の多くが、諭吉の「儒学批判」の部分も、額面通り受け取ってしまった可能性が大です。
(諭吉は、「漢学者「流」」とか「漢儒「先生」」とかいった韜晦語法を駆使することでも、我々に察してね、と手がかりを与えてくれているところ、そんな彼が、時々、「儒者」だの「漢儒」だのといった、直截語法を用いてしまっているのは困ったものです。
いずれにせよ、丸山大先生までもが、額面通り受け取ってしまったとは、何たることでしょうか。)
その結果、何とその害が外国にまで及び、とんでもないことが出来してしまったことが下掲から分かります。↓
「儒教といえば忠・孝の抑圧的封建道徳のみというモノトーンの反応<を>するのは、かなり日本的発想のようだ。
このようにいえば必ずや、<支那>においても家族制度は専制主義の根拠であるという論陣を張って打倒孔家店を叫んだ、あの五四の新文化運動<(注2)>があるではないかといわれるであろう。
(注2)「新文化運動とは、1910年代の<支那>で起こった文化運動<であり、>・・・五四運動と不可分の関係にある。見方を変えれば、一連の新文化運動の中の最も重要な事件が五四運動であるとも言える。中心人物は、陳独秀であり、彼の創刊した「新青年」という啓蒙雑誌(白話運動を推進する文学革命の中心的雑誌)に寄稿した、魯迅・銭玄同・胡適・李大釗・呉虞・周作人などの人々が、運動の中心とな<り、>・・・礼教としての儒教に代表される旧道徳・旧文化を打破し、人道的で進歩的な新文化を樹立しようということを提唱し<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%96%87%E5%8C%96%E9%81%8B%E5%8B%95
しかし、当時にあっても、新文化運動をになった「新青年<(注3>派」に猛烈な反対<を>した「学術派」(アービング・バビット<(注4)>の新文化主義の影響を受けた<支那米>留学生グループ)が、あの孔子批判の論はもともと<支那人の>日本留学生が日本人<(諭吉!(太田)>の論を<支那に>持ち込んだものだと主張している<ところだ。>……
(注3)「1915年9月15日に上海で創刊された本雑誌『新青年』(発刊当初は『青年雑誌』であり、1916年に『新青年』に改題された)であった。袁世凱による帝制運動が進められ、復古の風潮が全国を覆っていた時期である。この『新青年』の代表的スローガンが「民主と科学」であり、執筆者達は、「民主」と「科学」を基調とする新文化の建設を訴えた。背景には、辛亥革命が「儒教」社会の構造や人間の倫理規範を何ら改変させるところなく、第一次世界大戦(1914年-1919年)に参戦中の列強による「瓜分」が深刻になってきたことに加え、袁世凱政権が日本からの「対華21ヶ条の要求」を受け入れたこと(1915年)への挫折感・屈辱感・危機感があった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E9%9D%92%E5%B9%B4_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD)
(注4)Irving Babbitt(1865~1933年)。「オハイオ州デイトン生まれ。ソルボンヌ大等で学び、後、ハーバード大学教授としてフランス文学、比較文学を教える。倫理的批評「ニュー・ヒューマニズム」の旗手として活躍し、T.S.エリオットに大きな影響を与えた。19世紀から20世紀初頭にかけての感情主義的批判から、今日の知性主義に基づく批評への変換に大きな力を貸した先駆的存在であった。」
https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%20%E3%83%90%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%88-1628520
<話は真逆であって(太田)、>五四時代のあの全面的な反伝統の態度<は、むしろ、>儒教の持つ実用理性の発揮だ<ったというのに・・>。」–金英時著森紀子訳『中国近世の宗教倫理と商人』,P.302–(小野進「儒教の政治哲学における国家と正義(justice)・(上)より孫引き。)
http://r-cube.ritsumei.ac.jp/repo/repository/rcube/2939/e_59_5ono.pdf
(続く)