太田述正コラム#10382006.1.10

<「アーロン収容所」再読(その4)>

 もう一点、忘れてはならないことは、「アーロン収容所」当時の日本が、現在とは比較にならないほど、男尊女卑の社会であったことです。

 それだけに、女兵士にあごで使われたことだけで、会田を含めた日本の兵士達が逆上した、ということなのではないでしょうか。

 (4)各論2:復讐

 英軍兵士の少なからぬ部分は日本の兵士達を憎んでいたと思われます。

 先の大戦中、日本軍が捕虜とした英軍兵士は約5万人は、泰緬鉄道建設等の労働を強いられ、終戦までに、その約25%が死亡しました。これに対し、先の大戦におけるイギリス全軍の死亡率は約5%であり、独伊軍に捕らえられた英軍捕虜の死亡率もたまたま同じ約5%でした。25%という死亡率は、英軍が第二次世界大戦中に経験した苛酷な戦い、例えばノルマンディー上陸作戦やビルマ戦などと比較してもはるかに高い数値でした(注5)。(http://www.hozokan.co.jp/rekikon/kanto/kanto149.html。1月7日アクセス)

 (注5)コラム#805も参照。この時引用した数字と微妙に異なる。

ですから、終戦直後に英軍兵士の少なからぬ部分が日本軍兵士を憎み、復讐したいという気持ちを持っていたことは想像に難くありません(注6)。

(注6)山梨学院大学法学部の小菅信子助教授は、「東京裁判にせよ、いわゆるBC級戦争犯罪裁判にせよ、これらにおいて裁かれた「通常の戦争犯罪」はもっぱら連合軍捕虜虐待であったし、講和条約にいわば例外的に盛り込まれた個人賠償についての規定(第16条)は連合軍捕虜のみを対象とするものであった」上、1960年代初に会田雄次が『アーロン収容所』を出版し、終戦後英軍(正確には東南アジア連合軍)が降伏した日本軍人に課した苛酷な労働生活を描いたこともあり、日本軍の英軍捕虜処遇問題については、償いはしたので解決済みというのが日本人の感覚だったが、英国側にはわだかまりが残り続けたとし、次のような例を挙げている。

1971年秋、昭和天皇のイギリス訪問にあたって、元東南アジア連合軍司令官のマウントバッテン卿(エリザベス女王の伯父)が、天皇との会見を拒否した。また、放映中に昭和天皇が植えた記念樹は何者かによって引き抜かれた。

1988年に昭和天皇が臨終の床についたとき、『サン』などの英国大衆紙はこぞって「地獄が天皇を待っている」などと書きたてた。

1995年、イギリスは第二次世界大戦の戦勝50周年記念を祝うべく旧敵国ドイツを式典に招きながら、日本代表は招待せず、かわってマスメディアが連日のように日本批判の報道を繰り返した。

1998年初夏、現天皇の英国訪問に際してなお、日章旗は燃やされ、英軍元捕虜らは天皇のパレードに背を向け、口笛を吹いて抗議の意を表した。

(以上、http://www.hozokan.co.jp/rekikon/kanto/kanto149.html上掲による。)

    私が、この英国側のわだかまりは、(終戦直後にはまだ明らかではなかったが、)先の対戦の結果、大英帝国が瓦解したこと、つまりは日本が大英帝国を瓦解させたことにより、増幅され、尾を引いた、と考えていることは以前にも(コラム#698805で)申し上げたところだ。

では、英軍はどのように「復讐」を行ったのでしょうか。

終戦後の日本兵には三つのグループがありました。

会田自身が言うように、捕虜(capturedprisoner of war)、降伏軍人(disarmed military personnel=surrender personnel)、そして戦犯(war crimed)です(65頁)。

「復讐」は、戦犯(いわゆるBC級戦犯)、降伏軍人、捕虜の順に激しく行われました。

ジュネーブ条約によって保護されないところの戦犯に対しては、名ばかりの軍事「裁判」で有罪を連発し、多くを刑死に追いやったほか、会田が伝聞を記しているように、裁判にかけるまでに、川のカニには病原菌がいるので生食しないようにとのお達しを出した上で、戦犯達を飢えさせ、そのカニを生食させるように仕向け、死に追いやる、といった非道な、しかし直接的にはジュネーブ条約に違反しない形で「復讐」を行いました(66?67頁)。

そして、そもそもジュネーブ条約の対象ではないところの、会田らの東南アジア連合軍管轄下の降伏軍人に対しては、港における荷役作業や土木作業、農漁業あるいは連合軍兵舎における雑役等に就労させ(http://www.hanmoto.com/bd/ISBN4-7503-2242-3.html。1月7日アクセス)(注7「残虐行為」にわたらない範囲で、肉体的・精神的に意趣返しを行ったのです。

(注7)ソ連による、日本降伏軍人のシベリア抑留に比べて、人数が少なく、期間も短く、また死者も少なかったことから、日本ではこれまで余り話題にはのぼらなかった。

(続く)