太田述正コラム#11021(2020.1.2)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その13)>(2020.3.24公開)
「<「私(諭吉)は、教わった>・・・詩経に書経と云ふものは本当に・・・善く読みました。
ソレカラ蒙求(もうぎゅう)、世説(せせつ)、左伝、戦国策、老子、荘子、と云ふやうなものも能く講義を聞き、其先きは私独りの勉強、歴史は史記を始め前後漢書、晋書、五代史、元明史略と云ふやうなものも読み、殊(こと)に私は左伝が得意で、・・・私は全部通読凡(およ)そ十一度び読み返して面白い処は暗記して居た。
夫れで一ト通り漢学者の前座ぐらゐになってゐた」(福翁自伝)
・・・諭吉の・・・儒学の知識は・・・右<(上)>に見らるる限り、一般的教養の程度をはるかに越えていたという事が出来る。
諭吉の儒教批判が他の単なる洋学者よりも鞏固な理論的整備を具え、それだけ深刻な影響力を発揮しえたのは怪しむに足りない。」(20)
⇒諭吉の挙げている諸書のうち、蒙求、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E6%B1%82
世説、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E8%AA%AC%E6%96%B0%E8%AA%9E
戦国策、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E7%AD%96
老子、荘子、史記、前後漢書、晋書、五代史、元明史略、は、儒教のいわゆる四書五経類には属さないのであって、だからこそ、諭吉自身は、自分を「儒学者の前座ぐらゐ」ではなく、「漢学者<(注14)>の前座ぐらゐ」、と評していた、というのに、丸山は、勝手に、諭吉をセミプロの儒学<(注15)>者に仕立て上げてしまっています。
(注14)「漢学(かんがく)とは、特に江戸時代の日本において、中国伝来の学問の総称。・・・漢学の重要な素養として漢詩、特に近体詩が書けることがあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%AD%A6
(注15)「儒学<とは、>・・・<支那>古代の儒家思想を基本にした学問。孔子の唱えた倫理政治規範を体系化し、四書五経の経典を備え、長く<支那>の学問の中心となった。自己の倫理的修養による人格育成から最高道徳「仁」への到達を目ざし、また、礼楽刑政を講じて経国済民の道を説く。のち、朱子学・陽明学として展開。」
https://kotobank.jp/word/%E5%84%92%E5%AD%A6-527993
こんな丸山流で行けば、毛沢東だって、セミプロの儒学者ということになってしまいそうです。
なお、私は、日本において「諭吉の儒教批判が・・・深刻な影響力を発揮しえた」ことなど全くないけれど、それは支那にはあてはまる、と、既に指摘したところです。(太田)
「<維新後の諭吉の>後期は<、彼>が主として時事新報によって活躍した時代で、明治15年頃から 晩年までである。・・・
<彼のこの>後期の儒教批判はどちらかといえば間歇的で、ある特定の時期の論著に集中的に現れている。・・・
<一つは、>明治14・5年以後の2、3年間<の、>・・・薩長政権<が>・・・民権運動を極力弾圧しつつ、進んで教育方針をも一変し、教科書の検閲を厳重に行い、儒学者を全国官公立学校に配して四書五経を講ぜしめ、外国語の教授を廃する等、大規模に復古教育を実施した<時期であり、>。・・・<もう一つは、>明治30年前後の・・・条約改正問題<の時期である。>・・・
後期の儒教批判<については、諭吉自身がこう記している。>
「・・・周公孔子の教は忠孝仁義の道を説きたるものにして一点の非難もなきのみか寧(むし)ろ社会人道の標準として自から敬重す可きものな<るも、>其主義の純粋無垢なるに拘はらず腐敗し易き性質を具へて、今は全く本来の本性を一変して腐敗の極に達したる其害毒を認むる」が故に排撃する<のである、と。>」(22~23、25、27)
⇒こんなものは、儒教批判などでは全くありません。
諭吉としては、慶應義塾の経営は既に軌道に乗っていたので、もはや、儒教批判は引っ込めてよかったのだけれど、かつて激しく儒教批判をやっていた時期があっただけに、言い訳的に儒教批判的言辞を一応弄することで過去の自分の言説との整合を図った、というだけのことでしょう。(太田)
「攘夷主義乃至排外主義的風潮に対しては終始一貫抗争した諭吉も、対朝鮮・支那の外交問題に関しては是(これ)また終始一貫、最強硬の積極論者であった。
この二つの表見的には矛盾する態度を諭吉の心裡に於て一つの統一的な志向にまで結び付けていたものが外ならぬ彼の反儒教意識であったということは注意されていい。
⇒「結び付けていたもの」は、諭吉が抱懐していたところの、私の言う、島津斉彬コンセンサスです!(太田)
諭吉<は>我国に於ける攘夷排外の気風を儒教思想の属性と見た・・・ところであるが、こうした見解は元来、日本儒教の母国としての支那・朝鮮の歴史的現実から得られたものであった。
そのことは夙に慶應年間、彼が「江戸中の爺婆を開国に口説き落さん」とて書いた『唐人往来』<(注16)>の中に支那を批判して、「兎角改革の下手なる国にて千年も二千年も古の人の云ひたることを一生懸命に守りて少しも臨機応変を知らず、むやみに自惚の強き風なり。其証拠には唐土(もろこし)、宋の時代より北方にある契丹、或いは金、元などと云ふ国を夷狄々々と唱へ、そのくせ夷狄と師(いくさ)をすればいつも負けながら蔭では矢張り畜生同様に見下し、己が方には何の改革も為さず備もせず」として阿片戦争及び1858年の対英仏事件等に言及し、「己が国を上もなく貴き物の様に心得て更らに他国の風に見習ひ改革することを知らざる己惚」を戒めたところに早くも示されている。
(注16)「「江戸鉄砲洲<(>てっぽうず<)」>某」の匿名で、しかも版行されず写本として、幾分流布されたのみであった。」
https://furigana.info/w/%E5%94%90%E4%BA%BA%E5%BE%80%E6%9D%A5:%E3%81%A8%E3%81%86%E3%81%98%E3%82%93%E3%81%8A%E3%81%86%E3%82%89%E3%81%84
⇒『唐人往来』は、諭吉はついに公刊しなかったのですから、彼は、密かな回覧目的で(日本を支那に準えたことが明々白々な)アジテーション文書として書いたと思われますが、丸山による引用の中で、諭吉は、支那の弥生性の脆弱さを問題視しつつも、特段、そのことと儒教とを結び付けてはいません。
ということは、丸山には申し訳ないけれど、幕末の段階で、(私が指摘したように)諭吉が反儒教意識など抱いてはいなかったことが、むしろここからも推認できる、というものです。(太田)
下って明治17年、朝鮮の甲申政変に際しても、諭吉は例の漫言を以て、「…拍子そろへて支那朝鮮、周公孔子の末孫が、久留兵衛どんに撃立てられ(1884年仏清事件に於ける仏蘭西提督クルベーを指す–筆者)、内の焼けたも苦にならず、隣に出す痩腕を、頼む飴屋の事大党(清国と事大党との結託を意味す–筆者)…慶祐宮の刀風(たちかぜ)は、六個(むつ)の首(あたま)を吹飛ばし、側杖喰ひし日本人、あとの始末は如何ならん、是も儒の字の御利益か、アナ恐ろしの周公や、ハレ恨めしの孔子様、あなたの教に首ッたけ、かぢりついたる其の首は、ころりと落ちて国も亦、ころりと倒れん其様は、余所(よそ)ながらにてもお気の毒」云々と諷して、この隣国の情勢のうちに、恰も前述した明治15年来の我国の儒教復活に対する生きた警告を見出している。・・・
かくて支那朝鮮は彼が歴史的必然と信じた文明開化の世界的浸潤に抵抗する保守反動勢力の最後の牙城と映じたのである。
されば朝鮮の近代化運動への我国の後援をめぐって、対清関係が漸く悪化するや、従来の国内儒教思潮に対する諭吉の抗争の全エネルギーは挙げて、儒教の宗国としての支那に対する敵対意識に転じて行ったことはきわめて自然であった。」(30~31)
⇒今度は、慶應義塾の経営者としての私的目的のための(心にもない)儒教「批判」ならぬ、アジア主義(アジア解放)を含むところの島津斉彬コンセンサスの民間信奉者重鎮としての公的目的のための(心にもない)儒教「批判」、を諭吉が行ったということであり、その含意に、丸山が下衆の勘繰り的に吐いた「我国の儒教復活に対する生きた警告」など皆無である、というのが私の見解です。(太田)
(続く)