太田述正コラム#11023(2020.1.3)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その14)>(2020.3.25公開)
「明治27年6月12日東学党の乱に対応すべく日本の国内分裂と見た支那の短見を嗤い、・・・翌日の時事日報の社説に於て・・・次の様に論じた。
「・・・日本の国会は苟も帝室の尊厳を犯さゞる限り、如何なる事を議し如何なる事を論ずるも自由自在にして毫も制限せらるゝ所なし。
政府の政略を攻撃し当局者を罵り倒すが如き、尋常の事にして敢て奇と為(す)るに足らざれども、君臣の分、上下の別など幾千百年儒教主義の門切形に脳髄を刻まれたる支那人等の眼より見れば、是れぞ所謂処士の横議なるものにして紀綱紊乱の極と認めざるを得ず。…
然るに其亡国の政府が今回の事件には廟議即決して出兵の計画甚だ盛んなりと云ふ、…彼等の驚駭も決して無理にあらず。
周公孔子の末流が化石の如き脳髄を以て漫に今世の観察を逞ふし、自から事の真相を誤りながら、今に至りて遽(にわか)に狼狽するとは唯失笑に堪へざるのみ・・・」
ここに諭吉が嘗て『学問のすゝめ』や『文明論之概略』に於て過去の日本に向けられた峻烈な批判がそのまま支那を対象として複写されているのを見出すに難くないであろう。
従って朝鮮の改革に就いても彼は、「朝鮮の改革は支那儒教の弊風を排除し文明日新の事を行ふもの」であるから、「改革の当局者は彼我両国の為めのみならず、世界共通の文明主義を拡張するの天職を行ふものと心得て終始するの覚悟肝要なる可し」と激励し、日清間の戦闘進展するに及んで、「今度の戦争は日清両国の争とは云ひながら事実に於ては文野明暗の戦にして其勝敗の如何は文明日新の気運に関する」となして北京を衝(つ)くまで断固兵を罷(や)めざることを主張し、終始輿論の最強硬陣営をリードしたのである。
諭吉に於ける独立自由と国権主義との結合が反儒教主義を媒介にしていたということは日清戦争が最も明確な形で証明したということが出来る。」(31~33)
⇒丸山に限らないのですが、こういう形の論述をする人の頭の構造がどうなっているのか、私は不思議でなりません。
というのも、仮に、諭吉が、丸山が主張しているようなことを本当に考えていたのであれば、支那、朝鮮、日本、の中で、日本においてのみは、「儒教主義の門切形に脳髄を刻まれ」たり、「周公孔子の末流が化石の如き脳髄を」持ったり、しなかったかので「改革」を行い「世界共通の文明主義」を継受できたか、或いは、したけれども「改革」を行い「世界共通の文明主義」を継受できたか、のどちらかだ、ということになるところ、諭吉が、前者だと思っていたのであればどうして「しなかった」のか、また、後者だと思っていたのであればどうしてそんなことが可能だったのか、についての自分の所見を、彼はその全著作群の少なくともどこかで記しているはずなのに、丸山自身が、一切そんな諭吉の所見を引用していないところから察するに、諭吉は、一切、この種の、極め付きに重要な事柄について所見らしい所見を開陳しなかった、と思わざるを得ないけれど、そんな諭吉なら、それはまことにもって知的に怠惰な人間であって、到底敬意の対象たりえないはずであるというのに、丸山は、一体全体どうして、そんな人物を敬意の対象にして、諭吉について書きまくったんですか、と言いたくなるのです。
私自身は、既に累次ご説明しているように、諭吉は反儒教などでは全くなく、単に、時には経営者として、また、時には島津斉彬コンセンサス信奉者(アジア解放論者)として、反儒教の旗を、官学をディスるために、或いは、支那や朝鮮の人々を根本的改革へと扇動するために、便宜的に掲げることがあっただけのことである、と見ているわけです。
結局、丸山の致命的弱点は、諭吉の書いたことだけに捕らわれていることだ、と言えそうですね。
例えば、丸山は、たった今私が指摘したところの、諭吉が(あえて)書かなかったことを顧慮していませんし、諭吉が書いたことと(あえて)書かなかったこととを、諭吉のパーソナルヒストリー・・例えば、諭吉の薩摩藩や慶應義塾との関係・・と照らし合わせつつ解釈しようともしていません。
このような致命的弱点は、丸山の想像力の乏しそうな資質もさることながら、彼が試験で答案を書く生活しか基本的に経験しないまま、東大法学部で教官としてテニュアを得てしまったことにその原因の大宗があるように私には思えてならないのです。
皆さんよくご承知のように、試験では、公知ではない事実に関しては、出された問題に盛り込まれているものだけで答案を書かなければなりませんし、それだけでは答案が書けないような問題は出ないけれど、実社会では、そんなシチュエーションなんて殆どありえないですよね。
それに、実社会では、人が完全にホンネで語ること自体、稀であると言っていいでしょう。
そんなことは、実社会(娑婆)の風にあたったら、よほど鈍感な人でなければ、すぐに分かることです。
ところが、丸山があたった娑婆の風といったら、帝国陸軍の末端での短期間の勤務くらいしかありません。
軍隊の、とりわけ末端においては、紛れようのない明確な命令の下、忠実にその命令を実行しなければならないものなのであり、そんな経験は、上述の丸山の致命的弱点の矯正には全く繋がらなかったはずです。
その結果・・いや、ここではこれくらいにしておきましょう。
(続く)