太田述正コラム#11027(2020.1.5)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その16)>(2020.3.27公開)
「福沢の実学に於ける真の革命的転向は、実は、学問と生活との結合、学問の実用性の主張自体にあるのではなく、むしろ学問と生活とがいかなる仕方で結びつけられるかという点に問題の核心が存する。
そこでの「学問」の本質構造の変化に起因しているのである。
この変化の意味を探って行くことが、やがて福沢の実学の「精神」を解く鍵である。・・・
⇒どうせ丸山流妄想が開陳されるのだろうと達観しつつも、一応期待してしまいますが・・。(太田)
福沢は自伝の中でこういっている。
「・・・国勢の大体より見れば富国強兵、最大多数最大幸福の一段に至れば、東洋国は西洋国の下に居らねばならぬ。
国勢の如何は果して国民の教育より来るものとすれば、双方の教育法に相違がなくてはならぬ。
ソコで、東洋の儒教主義と西洋の文明主義と比較して見るに、東洋になきものは、有形に於て数理学と、無形に於て独立心と此二点である。・・・
是れでは差向き国を開いて西洋諸強国と肩を並べることは出来そうにもない。
全く漢学教育の罪である。・・・
⇒このくだりだけからも、私が指摘したように、諭吉が教育(学問)を富国強兵のための手段と考えている、ということは明らかだと思いませんか?
結論の部分で「最大多数最大幸福」は消えてしまっていますよね。
(なお、その部分で、「儒教」が「漢学」にすり替わっている点もお見逃しなく。)(太田)
つまり彼は東洋社会の停滞性の秘密を数理的認識と独立精神の二者の欠如のうちに探り当てたのである。
この二者が相互に如何に関連するかということは行論のうちに明らかになろう。
⇒ここでも、先回りして私の見解を申し上げれば、この二者を相互に関連させているのは「個人主義」なのです。
独立精神とは、友人、家族、一族郎党、地域、民族、国、階級、階層、更には、私の言う人間(じんかん)、等、への帰属意識よりも個としての自分の意識を優先させる、という、(ゲルマン人起源で)イギリス由来の奇妙な精神、すなわち、個人主義、の別名であると言ってよいところ、「数理的認識」とは、方法論的個人主義(注21)、を指しているのである、と。(太田)
(注21)「Methodological individualism・・・ とは、社会構造やその変化を、個人の意思決定の集積として説明し理解する考え方をいう。・・・社会科学の方法として方法論的個人主義を明確に位置づけたのは、シュンペーターである。それにより政治思想としての個人主義と社会科学の方法論としての個人主義とを明確に区別された。・・・
ジョーン・ザイマンは、方法論的個人主義が社会生物学と進化心理学にも内在していると指摘している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E6%B3%95%E8%AB%96%E7%9A%84%E5%80%8B%E4%BA%BA%E4%B8%BB%E7%BE%A9
私自身は、社会科学の方法としての方法論的個人主義の創始者はホッブスである、換言すれば、そのような意味での近代社会科学の創始者はホッブスである、と考えている。(コラム#省略)
また、私は、・・私だけかもしれないが、・・方法論的個人主義(の極限形たるatomism(上掲))が、近代自然科学、就中、物理学「にも内在している」、と考えている。
差当りここでの問題はヨーロッパ的学問の核心を「数理学」に見出したということである。
数理学と彼が云っているのは、厳密にいうと近世の数学的物理学、つまりニュートンの大成した力学体系を指す(他の個所では彼は「東西学の差異は物理学の根本に拠ると拠らざるとの差異あるのみ」(続福翁百話)という様に、物理学という言葉を用いている)。・・・
「我が慶応義塾に於て初学を導くに専ら物理学を以てして恰も諸科の予備と為す」(物理学之要用、全集八)。
ところで之に対してアンシャン・レジームに於て学問の中核的地位を占めたのは何であるかといえば、いうまでもなく修身斉家の学、すなわち倫理学である。
そこでは学とは「教へ」であり、教学が学の本来的なあり方である。そうしてその「教へ」はすぐれて、「道」の教えにほかならぬ。」(44~46)
⇒諭吉も当然そうですが、丸山もご多分に漏れず、アングロサクソン文明とプロト欧州文明/欧州文明との違いに気付いていないところ、ここは、本来、「之に対して欧州のアンシャン・レジームに於て」でなければ間違いです。
イギリスにアンシャン・レジームなんて存在しなかったのですからね。(コラム#省略)(太田)
(続く)