太田述正コラム#11031(2020.1.7)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その18)>(2020.3.29公開)
「アンシャン・レジームの学問に於て<は、>・・・自然は人間に対立する、外部的なものではなくして、むしろ本質的に精神的なものと考えられる。
そうして自然が精神化される事は同時に精神が対象化によって自然化され、客観的自然界のうちに離れ難く編み込まれる結果をもたらすのである。
このことを徳川時代の著名な学者の叙述を二つ挙げて例示して見よう。
⇒おやおや、アンシャン・レジームって、「西洋」だけじゃなく、「東洋」というか、少なくとも日本、にもあった、というわけですか。
そういうことが言いたいのであれば、丸山なりに、「アンシャン・レジーム」なるものをきちんと定義してくれないと困るのですが・・。(太田)
<林羅山と貝原益軒の>二つの言説<(省略)>をひきくらべると、論述のはこび方の著しい類似性が容易に感知されるであろう。
そこで意図されているのは、共に上下貴賤の差別に基く社会的秩序の基礎づけであり、その基礎づけが共に自然界からのアナロジーに於てなされている。
社会的秩序は自然現象の間に見出される整合性との対応のうちにその正当性の根拠を持っている。
それは自然の秩序に相即するがゆえに、まさに自然的秩序と観ぜられるのである。
しかも重視されねばならぬのは、かくの如く、社会秩序を基礎づけるべき「自然」のうちに実は社会の秩序的価値を最初から忍び込ませていることである。
天は高く地は低いことが天地の秩序を成している。
故に、人間も是と同じく上下貴賤の関係に於て結びつく時にのみ正しい秩序が保たれる<、と。(注23)>」(48~49)
(注23)「天は尊く地は卑しくして、乾坤定まる。卑高以て陳なりて、貴賤位す。・・・<(=>天は高くして上に在って万物を覆い、地は低くして下に在って万物を載せている。また天地間の万物は低きより高きに至り、秩序を以て分かれ列なっている<。)>」(易経 繋辞伝冒頭)
https://kokugonomado.meijishoin.co.jp/posts/1230
⇒羅山にせよ益軒にせよ、「注23」に掲げた易経のくだりに由来する定型的言い回しを援用しているところ、その訳文からも窺われるように、この文脈において用いられているところの、尊卑/貴賤、には価値的上下関係の含意はなさそうであること・・その可能性を丸山は全く顧慮していない!・・、かつまた、丸山は本稿を執筆した頃は知る由がなかったでしょうが、「江戸時代の身分制度は、以前まで言われていた「上見て暮らすな、下見て暮らせ」<的な>・・・差別政策を目的につくられたのではな<く、>秀吉の兵農分離政策を受け継いで、中世まであった流動的な身分を固定していったというのが、現在の・・・捉え方であ<り、>・・・<そ>の最も大きな特徴は、身分は生まれた場所によって決まり、原則的に死ぬまで変えることができない、という点であ<っ>・・・て、「武士身分」には「軍役」を、「町人身分」には「町人役(お金)」を、「百姓身分」には「年貢(米・特産物)」や「夫役(労働)」を、「百姓や町人とはことなる身分」には・・・農業だけでなく、皮革業、刑吏役、芸能、薬づくり、医者、染め物、竹細工づくり・・・を、というようにそれぞれの身分に社会的役割を持たせ<ることがその眼目であった>」
http://www.saga-ed.jp/workshop/karatuji/data/jissen/history/3-1edo-mibun.html
こと、を踏まえれば、羅山や益軒は、単に、自らの身分において期待される社会的役割をきちんと果たせ、と諭しているだけのように、私は思います。
(但し、「江戸時代も後期になると、幕藩体制がゆらぎはじめ・・・体勢を立て直すために幕府が取った政策の一つが、身分制度の引き締めであ<り、>幕府や藩は、「百姓や町人とはことなる身分」とされた人々に、身分が分かるような身なりを強制したり、「百姓や町人とはことなる身分」とされた人々の命を軽視するような奉行所による裁きを行ったりした<ところ、>このような政策の中で、民衆の中に「百姓や町人とはことなる身分」とされた人々に対する強烈な差別意識が刷り込まれていった」(上掲)ことに留意すべきでしょう。)
(続く)