太田述正コラム#11037(2020.1.10)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その21)>(2020.4.1公開)

 「・・・「余り理論に傾くときは、空理としてこれを斥け、絶えず実学の本領に反省せしめることを忘れないのが、東洋の学の風である」(西晋一郎、東洋倫理、8頁)ならば、福沢に於ける実学はむしろ之と真正面から対立し、「如何なる俗世界の些末事に関しても学理の入る可らざる処はある可らず」(慶応義塾学生諸氏に告ぐ、全集十)という立場からして、生活のいかなる微細な領域にも、躊躇することなく、「学理」を適用して是をすみずみまで浸透させる。
 理論と現実は実験を通じて絶えず媒介されているから、一見学理の適用不能に見える場合でもそれは「未だ究理の不行届なるものと知る可し」(物理学之要用、全集八)であって、決して中途で理論を放擲して、「現実」と安易な妥協をしない。・・・
 また彼<は、>学問の発達のためには、「今の不学なる俗政府」にも「近く実利益を期する」様な寄付金にも頼りえずとし、「爰(ここ)に一種の研究所を設けて、凡そ5、6乃至10名の学者を撰び、之に生涯安心の生計を授けて学事の外に顧慮する所なからしめ」、研究の方針についても「其成績の果して能く人を利するか利せざるかを問はざるのみか、寧ろ今の世に云ふ実利益に遠きものを撰んで」研究させる事を提議している(人生の楽事、全集十四)様な態度<を採った。>」(58~59)

⇒過去コラム(コラム#省略)や本シリーズで既に申し上げてきたことを踏まえ、私は、こういう丸山の皮相的な論述を読むにつけ、丸山が諭吉を自らと同じような、たんなる学者、識者としか見ていないことに呆れ、丸山を侮蔑する気持ちが募る一方です。
 丸山は気が付いていないけれど、維新以前の諭吉は、薩摩藩のスパイとしての仕事がメインであり、サブである学者としての仕事は幕府に食い込むための手段という側面があったわけであり、また、維新以後の諭吉は、島津斉彬コンセンサス信奉者として同コンセンサスを国内外に宣伝普及させる仕事と慶應義塾の経営者としての仕事の二つがメインの仕事であって・・より踏み込んで言えば、後者は前者のための資金、人材、インフラを確保するための基盤であるとも見ることができるが・・、サブである学者としての仕事はこれらのための手段という側面があった、と私は見ているわけです。
 つまり、諭吉は、何よりもまず、革命家であり、次いで経営者でもあり、最後に学者だった、と、私は言いたいのです。
 革命家であれ、経営者であれ、ホンネばかり吐いているようでは務まりません。
 下掲に目を通してください。↓ 
 「慶應義塾は、大学令が公布された翌年、大学設立の件を申請し、<更にその翌年の大正>9年<(1920年)>2月5日付で認可を得た。私立大学としては最初の認可である。
 認可された慶應義塾大学は文学、経済学、法学および医学の四学部からなる総合大学で、・・・予科と大学院と<が>付設<され>た。・・・
 昭和元年(1926)8月、・・・わが国の人口および食糧問題解決に努力するとともに、健康人や病人の栄養、食餌についての研究および特に患者の食餌療法の科学的改善を目的とする<ところの、>・・・食養研究所および臨床研究室・・・が・・・益田孝、門野幾之進、団琢磨、根津嘉一郎・・・らが同志を勧誘し・・・資金募集につくして・・・慶應義塾に寄付したことにより・・・できた。・・・昭和4年(1929)4月、・・・<施設の工費>の大部分はアメリカのロックフェラー財団からの寄付によっ<て>・・・予防医学教室が<発足>した。」
https://books.google.co.jp/books?id=wsNFAAAAIAAJ&pg=PP534&lpg=PP534&dq=%E6%85%B6%E5%BF%9C%E7%BE%A9%E5%A1%BE;%E9%99%84%E7%BD%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80&source=bl&ots=Pmdmok-1sN&
 他方、諭吉が亡くなったのは明治34年(1901年)です。
 彼は、有言実行どころか、生存中には、「「政府」にも・・・寄付金にも頼<ら>ず・・・研究所を設けて、・・・寧ろ今の世に云ふ実利益に遠きものを撰んで・・・研究させる事」など全く実行せず、慶應義塾を、もっぱら、文学(欧米文献翻訳家養成)、法学(弁護士養成)、経済学(実業家養成)、医学(医者養成)なる「東洋的」諸実学の教育を行うことに終始させた挙句、その慶應義塾は、このような諭吉の遺訓(?)よろしく、実に、諭吉の死後19年も経ってから、ようやく大学院を設けて研究活動を開始するも、依然、「学理」の粋であるところの物理学等の理学の教育研究からは目を背け続け、およそ「研究所<的なものが、何と、>・・・寄付金に・・・頼り<切った形で>・・・設け<られた>」のは、その更に6~9年後であって、しかもその全てが医学部付属病院の経営に資するものばかりだった、ときているのですからね。
 丸山は、こういった、諭吉が書かなかったこと、そして、諭吉が亡くなってからのこと、の全てのことに目を瞑っているのですから、ひどい話です。
 念のためですが、私は、諭吉を嘘つきだと言っているのではありません。
 革命家や経営者としての仕事を、その生涯を通じてやり通した彼を私は高く評価するに至っています。
 繰り返しますが、そのためであれば、嘘を含むプロパガンダまがい言動だって許される場合が多々ある、ということを申し上げたいのです。
 このことは、教育者/研究者、としての諭吉に対する私の低評価と完全に両立します。
 (かつて、私は、諭吉の教育者/研究者、としての側面だけしか知らなかったので、諭吉を全く評価していませんでした(コラム#省略)が・・。)(太田)

(続く)