太田述正コラム#11049(2020.1.16)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その27)>(2020.4.7公開)
「文明は国家を超えるにも拘らず国家の手段となり、国家は文明を道具化するにも拘らずつねに文明によって超越せられる。
この相互性を不断に意識しつつ福沢はその時の歴史的状況に従って、或は前者の面を或は後者の面を強調したのである。
要するに、こうした例に共通して見られる議論の「使い分け」が甚だしく福沢の思想の全面的把握を困難にしているのであるが、まさにそこにこそ福沢の本来の面目はあった。・・・
<このような>福沢の思惟方法に最も近く立っている西洋哲学を求めるならば、なによりもプラグマティズムであろう。
あらゆる認識の実践的目的(「議論の本位」)による規定性を説き、「物の貴きに非ず其働の貴きなり」として事物の価値を事物に内在した性質とせずして、つねにその具体的環境への機能性によって決定して行く考え方はまさにプラグマティズムのそれではないか。
彼が『概略』の第一章において、いろいろの果しない論争が「議論の本位を定める」ことによって実際的に解決せられて行く例を挙げているところは、吾々にW・ジェイムズの有名な栗鼠の比喩<(注29)>を思い起こさせずには置かないし、「石橋鉄槌の用心」(福翁百話)を排し「凡そ世の事物は試みざれば進むものなし」、「開闢の初より今日に至るまで或は之を試験の世の中と云て可なり」(概略、巻之一)という実験主義は自からデュウィを連想させるものがある。・・・
(注29)・・・Pragmatism is a philosophical approach that seeks to both define truth and resolve metaphysical issues.
<これはプラグマティズムの定義としては、比較的分かり易い。↑>
William James demonstrates an application of his method in the form of a simple story:
A live squirrel<(栗鼠)> supposed to be clinging on one side of a tree-trunk, while over against the tree’s opposite side a human being was imagined to stand. This human witness tries to get sight of the squirrel by moving rapidly round the tree, but no matter how fast he goes, the squirrel moves as fast in the opposite direction, and always keeps the tree between himself and the man […] The resultant metaphysical problem now is this: Does the man go round the squirrel or not?
<この「栗鼠の比喩」自体も分かり易い。↑
しかし、それについての解説↓は分かりにくい、というか、言葉遊びにしか思えない。>
James solves the issue by making a distinction between practical meaning. That is, the distinction between meanings of “round.” “Round” in the sense that the man occupies the space north, east, south, and west of the squirrel; and “round” in the sense that the man occupies the space facing the squirrel’s belly, back and sides. Depending on what the debaters meant by “going round,” the answer would be clear. From this example James derives the definition of the Pragmatic Method: to settle metaphysical disputes, one must simply make a distinction of practical consequences between notions, then, the answer is either clear, or the “dispute is idle.”
<でも、以下のように、「栗鼠の比喩」は「実際的価値(カネになる価値=cash value)」があるかどうかが大事だ、という風に総括されると、その限りにおいては分かったような気にはなる。
いかにも米国人らしいね、という感想とともに・・。↓>
Both James and his colleague, Charles Sanders Peirce, coined the term “cash value.”・・・
https://en.wikipedia.org/wiki/William_James
⇒『概略』が上梓された1875年にはまだ生まれておらず、しかも、それ「についての見解は主要な提唱者の間でも正確に一致しない」ところの、プラグマティズム
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%B0%E3%83%9E%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%A0
、なんぞではなく、私には、(諭吉が学んだ適塾のあった大阪で「活躍」した)大塩平八郎や(諭吉の島津斉彬コンセンサス信奉者としての大先達とも言うべき)西郷隆盛、らが愛読したところの、陽明学の入門書たる、『伝習録』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9D%E7%BF%92%E9%8C%B2
の中で、「「知は行の始なり、行は知の成るなり(知ることは行為の始めであり、行為は知ることの完成である)」「行動を伴わない知識は未完成である」とも言い表される・・・知行合一」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E8%A1%8C%E5%90%88%E4%B8%80
を、諭吉が言い換えているだけのように思えてならないのですが・・。
丸山は、諭吉を儒教嫌いに仕立ててしまったために、あえてこういったことに目を瞑らざるをえないのでしょうが。(太田)
科学的進化論の立場を、もっぱら主体的自由や人権の抹殺のための武器として用いた加藤弘之<(コラム#9657、9713、10042、10238、10728、10860)>は、恰度(ちょうど)福沢と対蹠的に、まさに19世紀後半における自然科学的世界像の陥ったペシミズムを忠実に受継いでいるといえよう。」(80、82~83)
⇒諭吉と加藤の違いについては、前に(コラム#10860で)既に私見を記したところです。(太田)
(続く)