太田述正コラム#1049(2006.1.18)
<「アーロン収容所」再読(その12)>
以下のような事例を想像してみてください。
Aは出張先の町にいますが、本日午後に遠く離れた町で行われる結婚式で花婿付添人(best man)を務める予定であり、二人の結婚指輪を預かっています。ところが、長距離バスの停留所を目指して歩いていたところ、後15分でバスが来る、という時にサイフが盗まれていることを発見します。サイフには、バスの切符、クレジットカード、そして身分を証明するすべての書類が入っていました。停留所についたAは、町の通りすがりの人々に事情を話し、切符を買うためのカネを貸して貰おうとしましたが、誰も相手にしません。もう後5分でバスが来てしまいます。その時、身なりの良い男の人が、Aと同じ目的地行きのバスの切符をポケットに入れた上着をベンチに置いて席を外しました。誰も見ていません。
さて、Aは切符を盗むべきでしょうか。
この質問を米国人にぶつけると、大人も子供も、大部分は、盗むべきでないと答えます。
ところが、インド南部のマイソール市(Mysore)で同じ質問をすると、大人の85%、子供の98%は盗むべきだと答えるのです。
この調査を行った学者は、米国人は、正義と公正さによって自らの行動を律するため、見知らぬ他人に対して、ほんの少しでも被害を与えてはならないと考えるのに対し、インド人は、人間関係や契約上の義務を重視するため、見知らぬ他人が蒙る被害と結婚式が台無しになる被害とを比べ、後者の方がはるかに大きいことに着目する、と推測しています。
パプア・ニューギニアの田舎の人々にこの質問をぶつけると、もう一つの答えが返ってきます。
それは、出張先の町の誰もAを助けようとしなかった以上、Aは切符を盗むべきだが、それはAの責任ではなく、その町の人々全員の責任であるというのです。
(以上、http://www.bostonreview.net/BR30.5/saxe.html(1月12日アクセス)による。)
以上を私の言葉で整理すると、「汝盗むなかれ」という倫理は世界共通(注22)だけれど、このような事例において、米国ではこの倫理は守られるけれど、インドとパプア・ニューギニアでは守られないし、守られない理由が、インドでは人間関係ないし損得が倫理に優先するからであるのに対し、パプア・ニューギニアでは、そもそも集団倫理が個人倫理に優先するからである、ということになるのではないでしょうか。
(注22)最近では、「汝盗むなかれ」といった単純明快な倫理だけではなく、もっと複雑な倫理についても、世界共通であることが分かってきた。
以下の3つの設問をサイトに掲げ、世界中の1500人に投票させた研究がある。
1 切り離された貨車が線路上を歩く5人をはねようとしている。転轍手は転轍することによって、この貨車を引き込み線に引き入れ、引き込み線の線路上にいる1人がはね殺されるのを覚悟の上でこの5人を助けることは許されるか。
2 浅い池で子供がおぼれかけていて周りには自分しかいない。もし子供を助けると、自分の着物が台無しになる。子供を助けるべきだろうか。
3 5人の患者が病院に搬送された。彼らを生きながらえさせるためにはそれぞれに異なった臓器を緊急移植する必要があるが、一刻の猶予も許されない。病院の待合室に一人の健康な人がいる。この健康な人を殺してこの人の臓器を搬送された5人に移植することは許されるか。
結果は、1について許されると答えた者は90%、2について救うべきだと答えた者は97%、3について許されないと答えた者は97%だった。しかも、この結果は宗教を信じているかどうかや、男女間、更には国によってほとんど違いがなかった。また、どうしてこのように答えたかについて、大部分の人は、答えられないか、非論理的な答えしかできなかった。
(以上、http://www.taipeitimes.com/News/editorials/archives/2006/01/10/2003288343(1月10日アクセス)による。)
そして私の仮説は、アングロサクソンから見ると、このようなインド人は野蛮であり、またこのようなパプア・ニューギニア人は野蛮人の最たるものである、ということになるのではないか、そしてまた、インド人やパプア・ニューギニア人は、このように抽象的倫理をあくまでも遵守しようとするアングロサクソンに敬意を抱くのではなかろうか、というものなのです。