太田述正コラム#11061(2020.1.22)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その33)>(2020.4.13公開)
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[慶應義塾と財閥系実業家群]
「第一次満蒙独立運動には三菱財閥が、第二次満蒙独立運動には大倉財閥が、それぞれ資金を提供」(コラム#10897)、といったことだけからも、日本のいくつかの財閥が、金銭面等で、島津斉彬コンセンサス実現に向けて多大な協力を行ったことが窺えるわけだが、ここで改めて、表記について、その一端を紹介しておこう。
まず、「戦前の8大財閥(三菱財閥、三井財閥、住友財閥、安田財閥、浅野財閥、大倉財閥、古河財閥、川崎財閥)の中では唯一創業者の姓を冠さないものとなったが、これは新政権の明治政府に奉公するという<創業家の>岩崎<家>の気持ちを表したものだった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%8F%B1%E8%B2%A1%E9%96%A5
<ところの>三菱財閥については、事実上慶應義塾の分校であった三菱商業学校等の話を以前に(コラム#10600で)行っているので、そちらに譲る。
大倉財閥については、二代目の大倉喜七郎(1882~1963年)が「慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て慶應義塾大学を卒業」しており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%80%89%E5%96%9C%E4%B8%83%E9%83%8E
第二次満蒙独立運動(1915年)当時は、まだ創業者の大倉喜八郎(1837~1928年)が大倉財閥の総帥であったところ、後継ぎ息子の喜七郎を通じた慶應義塾との繋がりがあったであろうことは想像に難くない。
また、三井財閥については、以下のように、慶應義塾との人的な繋がりの濃さは相当なものがある。↓
「転機は、・・・中上川彦次郎[・・慶應を卒業し<ており、>福澤の甥っ子<でもある>・・]<(1854~1901年)>と益田孝を三井元方重役に据えた事である。
商業派の益田孝に対し、工業派の中上川彦次郎は慶應義塾の学生を多く入社させ、三井の工業化政策を多数押し進めた。
しかし、学閥を嫌う益田孝と中上川彦次郎の対立が鮮明となり、三井合名会社は團琢磨を理事長に指名し総帥に据えた。・・・
第一次世界大戦の好景気で産業が伸びていくさなか、財閥批判により團琢磨が血盟団員によって三井銀行本店前で暗殺される。財閥攻撃の嵐の中で三井財閥を防衛し、その改革を託された三井合名理事の池田成彬《・・慶應義塾理財科を経てハーヴァード大・・》は、軍部や右翼の圧力を受けながら三井報恩会を立ち上げるなど、大胆な財閥転向施策を実行。更には、三井物産理事常務取締役・山本条太郎と森恪<(注34)>により、三井物産の満州国進出が成し遂げられ、三井財閥は日本最大の財閥となった。また、政界にも多くの幹部を送り込み、立憲政友会は三井財閥が、立憲民政党は三菱財閥が資金をまかなっていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BA%95%E8%B2%A1%E9%96%A5
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%B8%8A%E5%B7%9D%E5%BD%A6%E6%AC%A1%E9%83%8E ([]内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%88%90%E5%BD%AC (《》内)
(注34)「「東洋のセシル・ローズ」を自認した帝国主義者。軍部と提携し、日本の中国侵出に大きな役割を果たした。・・・
慶應義塾幼稚舎を卒業したが、成績不良と素行不良のため慶應義塾普通部に進めず、大阪に帰郷。・・・
父と旧知の仲であった三井物産上海支店長で、後年、立憲政友会幹事長、南満州鉄道総裁を歴任する山本条太郎の縁故で、同支店支那修業生として中国に渡る。上海支店社員時代に中国語(北京語、広東語)、英語に通じたほか、日露戦争では、東シナ海洋上を接近するバルチック艦隊の航跡をいち早く発見、打電して、日本海海戦の勝利に民間から貢献した。また、辛亥革命では孫文に対し革命資金の斡旋を行った。・・・
1920年(大正9年)に三井物産を退社し、政友会公認で神奈川県第7区(足柄上郡・足柄下郡)から第14回衆議院議員総選挙に立候補し、初当選。・・・1927年(昭和2年)田中義一内閣で外務政務次官に就任する。当選2回でありながら政務次官となるのは異例のことであったため、党内からは反対論が噴出したが、院外団の支持と、森が地盤を受け継いだ横田千之助が田中義一を陸軍から政界に進出させた立役者であったため、就任にこぎつけた。田中義一首相が外務大臣を兼摂(兼任)したため、森は政務次官ながら事実上の外相として辣腕を振るう。田中政権下で対中国強硬外交を強力に推進し、山東出兵、東方会議開催などに奔走した。また、満蒙を中国本土から分離することを目論み、張作霖爆殺事件にも関係を取りざたされた。
田中内閣が総辞職すると、1929年(昭和4年)政友会幹事長に就任する。ロンドン海軍軍縮条約をめぐり、1931年(昭和6年)2月、首相臨時代理の幣原喜重郎外相を攻撃し、浜口内閣を揺さぶる。第2次若槻内閣を経て、同年12月13日政友会の犬養内閣が成立すると内閣書記官長となる。しかし、・・・犬養<と>は、大陸政策をめぐって対立する。・・・1932年(昭和7年)5月15日の五・一五事件では、会心の笑みを漏らした様子が語られている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E6%81%AA
更に、財閥ならぬ日立コンツェルンも、その出発点において、慶應義塾と切っても切れない縁がある。
すなわち、「日立製作所、日産自動車、日立造船、日本鉱業創立の基盤となった久原鉱業所(日立銅山)や久原財閥の総帥<の>・・・久原房之助<(1869~1965年)は、>・・・東京商業学校(現一橋大学)を卒業し、・・・慶應義塾(現・慶應義塾大学)に入学<し、>・・・同塾本科を卒業」した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E5%8E%9F%E6%88%BF%E4%B9%8B%E5%8A%A9
人物であり、「短兵急に事業を拡大したために無理が災し、大正末期に中核だった久原鉱業を義兄の鮎川義介<(1880~1967年)>に譲渡し」(上掲)ているが、鮎川は、「満州国の経済運営で巨大な満鉄が影響力を持つことを嫌った関東軍の求めに応じ日本産業を満州国に移し、満州重工業開発株式会社(満業)として初代総裁・相談役に就任。同時に満州国顧問・貴族院勅撰議員・内閣顧問を兼務した。当時の満州国の軍・官・財界の実力者弐キ参スケの1人とされた。弐キ参スケとは東條英機(関東軍参謀長)・星野直樹(国務院総務長官)、鮎川義介、岸信介(総務庁次長)、松岡洋右(満鉄総裁)である。鮎川・岸・松岡の3人は満州三角同盟とも称された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AE%8E%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E4%BB%8B
人物だ。
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(続く)