太田述正コラム#11063(2020.1.23)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その34)>(2020.4.14公開)
「・・・<諭吉>は「自から今の所謂宗教を信ぜずして宗教の利益を説く」(福翁百話)と言っている様に、宗教の意義をどこまでもそのプラグマティックな価値、それも「愚夫愚婦」乃至は「凡俗社会」の感化という徹底した実利的観点からみとめたにすぎなかった。<(注35)>・・・
(注35)「明治十一年九月の『通俗国権論』で、福澤は宗教は信じないが、宗教を軽蔑や敵視をせずに宗教と無関係に生きるとし、この視点を「宗教の外に逍遥」すると語っている。他方で、友人や両親の仏教法事を子孫最大の職務と心得て、それを無視する人といは一切交際しないと主張した。」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/sbp/34/0/34_2011_005/_pdf
「<諭吉の>姉の中上川婉(えん)も、クリスチャンになりました。末姉の服部鐘も、熱心なクリスチャンになりました。さらに福沢諭吉の長男の<一太>郎も、クリスチャンとなりました。三女清岡俊(とし)も、クリスチャンになりました。四女の志立滝も、クリスチャンになったのです。」
http://windychapel.com/blog2/?p=314
⇒既に申し上げたように、私見では、諭吉は、何よりもまず革命家であり、次いで(慶應義塾や時事新報の)経営者であって、教育者/研究者としては失格だったわけですが、教育者ということに関しては、家庭における教育者としても余り成功したとは言えないですね。
「注35」からも分かるように、諭吉は自分の宗教観・・正しい!・・を長男らにすら受け継がせることができなかったのですからね。(注36)
(注36)但し、下掲参照。↓
「福沢は国会開設運動かまびすしい頃、キリスト教排撃の主張を展開したことがあった。特に『時事小言』(明治14年)では、どの宗教が正しいかという議論は徹底的に避けた上で、日本で長年受け継がれてきた仏教を放棄し、西洋の宗教であるという理由だけで今キリスト教を受け入れることは、精神の側面から日本の独立を危うくすると主張した。精神の独立がひいては国家の独立につながるという福沢の立場からは、全く受け入れる余地がないというのである。宗教に関する議論は自由民権運動と連動する形で大いに盛り上がり、宗教界も敏感に反応して、キリスト教徒は激しく反論した。
『時事』創刊号の「発兌の趣旨」でも宗教に触れており、基本的にこの立場を維持していた福沢であったが、17年6月に突如社説「宗教もまた西洋風に従わざるを得ず」を掲載、キリスト教容認に転じた。福沢は、宗教の正邪は議論しないという立場を維持しつつ、アジアに対する西洋の進出や条約改正に向けた「内地雑居」の準備という観点から、動物の保護色の如く、日本が独立を維持する方便としてキリスト教を取ることもやむを得ない、として立場を改めたのである。他紙はこれを変節と見なして激しく批判したが、『時事』としては、宗教論も時事論の範疇(はんちゅう)であったといえよう。」
https://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/jijisinpou/20.html
そもそも、「福沢は・・・長男一太郎と次男捨次郎を明治一六年から二一年までアメリカに自費で留学・・・<させた>。渡米のとき、一太郎はニ〇歳、捨次郎は一八歳・・・福沢は当時五十歳<だった>」
https://www.gakushikai.or.jp/magazine/archives/archives_748_2.html
というところからして、子供達の仕上げ教育の段階で、致命的な誤りを犯しています。
そんなことをすること自体が、(自分の作った慶應義塾の大学部や日本の国立大学蔑視云々はあえて言わないとしても、)甘やかしの最たるものですし、長男も次男も米国かぶれになってしまうでしょうし、キリスト教徒になる可能性だってあったのですからね。
しかも、その後、長男には慶應義塾塾長、次男には時事新報社長を世襲させているようであり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89#.E8.A6.AA.E9.A1.9E.E7.B8.81.E8.80.85
もってのほかである、と言いたくなります。
この二人を含む、9名もの子供達のうち、ウィキペディアがあるのは一人だけ(上掲)で、その一人も、当該ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E5%85%89
をご覧になれば分かるように、なきに等しい、ということからも、私の言いたいことを御理解ただけるのではないでしょうか。
孫や曽孫、玄孫には若干ウィキペディアのある人物が登場する(上掲)けれど、それは、私が以前に記したことがある(コラム#省略)ように、有名人の子孫は結婚相手に恵まれるから、に過ぎません。(太田)
「既に世界に生れ出たる上は、蛆虫ながらも相応の覚悟なきを得ず。即ち其覚悟とは何ぞや。人生本来戯と知りながら、此一場の戯を戯とせずして恰も真面目に勤め…るこそ蛆虫の本分なれ。否な蛆虫の事に非ず、万物の霊として人間の独り誇る所のものなり」(福翁百話)・・・
<戯と真面目>の二つの側面は相互に補完し合ってはじめて意味を持つのであって、一方だけ切り離された瞬間にそれは誤謬と偏向の源泉となる<、というわけだ。>・・・
もし戯という面がそれ自体実体性を帯びるとそこからは宗教的逃避や虚無的な享楽主義が生れるし、真面目という面が絶対化されると、現在のsituationに捉われて自在さを失い易い。
真面目な人生と戯れの人生が相互に相手を機能化するところにはじめて真の独立自尊の精神がある。
福沢は「一心能く二様の働を為して相戻らず。即ち其広大無辺なる所以なり」と言って、そうした機能化作用を不断にいとなむ精神の主体性を讃えた。」(110~111)
⇒私には、このくだりは、諭吉が、大乗仏教(注37)、とりわけ、法華経
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8C
・・島津斉彬は日蓮正宗信者でした(コラム#省略)し、諭吉の家は浄土真宗本願寺派でした
http://keio150.jp/fukuzawa2009/blog_t/2009/02/post-a9fc.html
・・から読み取れる人生観を示唆したものである、と思うのですが・・。
(注37)「福澤門下生には、意外に多数の僧侶がいます。例えば真言宗の僧で、高野山金剛峯寺の座主にまでなった土宜法竜。この人は、博物学者として知られる南方熊楠との往復書簡がとりわけ有名なので、ご存知の方もいらっしゃるかも知れません。「南方マンダラ」と呼ばれるナゾの図も、この人への南方書簡に描かれました。ちなみに、福澤から土宜宛の書簡も2通確認されています(岩波書店刊の『福澤諭吉書簡集』に収録されています)。
臨済宗との関係でいえば、釈宗演を挙げることができます。この人は、妙心寺で得度(出家)し、臨済宗の円覚寺・建長寺管長などを務めました。禅をZENとして世界に広めたことで知られる鈴木大拙は、釈宗演を師とし、釈の国際的視野に大きな影響を受けたといわれています。なお、釈宗演宛の福澤書簡も1通が知られており(同上)、釈宗演の留学には福澤の援助があったといわれています。」(上掲)
すなわち、「仏教の曼荼羅図を見ると、一人ひとりの人間は、どれほど孤立しているように見えても必ず、世界の巨大なネットワークの網の目のどこかにつながっているのだということがわかります。だからこそ僕らはたった一人で悟ることはできない。方便によって、世界の巨大なネットワークの網の目につながった他者を救うことによってしか、真の悟りは得られないのです。」(名越康文『どうせ死ぬのになぜ生きるのか』より)
https://higan.net/book/2015/01/douse/
という人生観の下で、「人生本来戯と知りながら・・・も真面目に」他者を救うことに「勤め…る」ぞ、と、いう決意表明を諭吉は行っているのである、と。(太田)
(続く)