太田述正コラム#11065(2020.1.24)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その35)>(2020.4.15公開)

5 『福沢諭吉選集』第四巻解題–1952年

 「・・・福沢において政府或いは政治権力の存在根拠はどこに求められたかといえば、それは明らかに啓蒙的自然法の流れを汲んで基本的人権の擁護にあった。・・・
 例えば「時事大勢論」(明一五、全集五)にこういっている。
 「財産生命栄誉を全ふするは人の権理なり、道理なくしては一毫も相(あい)害するを許さず。之を人権と云ふ。・・・政府なるものを作て一国人民の人権を保護す。之を政事と云ふ。・・・」」(121)

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[江戸時代の「人権」状況]

一、財産権

 「江戸時代には、武士は屋敷、領地、家禄に対して非課税<だっ>たが自分の主君に対して「御役(おやく)」を勤めてい・・・た。
 また、商人の場合は土地・店は基本的に非課税<だっ>たが、商品の売上については運上・冥加(みょうが)と呼ばれる営業税・営業免許税が課税されてい・・・た。
 これに対して百姓は土地そのものには課税されず田畑の収穫物に年貢が課税され、農業の合間に行う農間渡世と呼ばれる副業に対して運上・冥加が課税され・・・た。
 このように、江戸時代には、土地など現代において財産・資産にあたる物に対しては非課税である場合が多かった・・・。こうした財産に対する課税の中、江戸時代には相続時の課税は行われてい<なかっ>た。」
https://www.nta.go.jp/about/organization/ntc/sozei/network/163.htm

⇒税負担はそれほど重くなく、恣意的な課税がなされたわけでもなかった。
 (「恣意的な課税」と受け止められた場合は一揆が起こったこと(典拠省略)を想起せよ。)(太田)

 「世に新発明のことあらば、これよりて人間の洪益をなすことを挙げて言うべからず。ゆえに有益の物を発見したる者へは、官府より国法をもって若干の時限を定め、この間は発明によりて得るところの利潤を独りその発明者に付与し、もって人心を鼓舞する一助となせり。」(西洋事情より)
https://www.niteco.jp/180622/
 「福澤は1873年(明治6年)4月5日に東京府に提出した書面において「著者に専売の利を帰せざれば力を費して書を著す者なし。世に著書なければ文明の以て進む可き路なし。(原文仮名:片仮名)」と述べ・・・ている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%88%E6%A8%A9

⇒諭吉は、特許権や版権(著作権)の欠如は問題視した。(太田)

二、男女平等

 「夫と妻の財産は別々に考えられ、妻の財産権は確立されていたとみることができるよう<だ>。つまり、夫が死んでも、妻はすでに自分の財産をしっかり持っていた・・・。
 江戸時代は離婚のハードルが低く、特に女性の再婚、再々婚はごく普通のこと<だった>。よく「夫が『三行半(みくだりはん)』の離縁状を書かねば離婚できなかった」と言われ<る>が、実際には離縁状は協議離婚の後の再婚許可証であり、「縁切り寺に駆け込む」というのは、離婚調停が難航した女性の最後の手段だったようで<、>離婚に際して夫は、婚姻時の妻の持参金を全額返済することになってい・・・たし、持参金の返済や慰謝料のために屋敷や田畑を売る男性も少なくなかった・・・。」
https://6128080.com/sun/hikitsugi/13/index.html

三、移転の自由

 「江戸時代<には、>・・・土地や屋敷を処分し、村を離れる農民も多かった・・・
 江戸町民の20%から30%は、他国で生まれた移入者であった・・・
 <当時の>都市に顕著な・・・特徴は、ひとつのまとまった社会を構成すること自体が難しいのではないかと疑いたくなる程の人口の流動性である。」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/sehs/66/4/66_KJ00002432934/_pdf
 「nam********さん・・・
 江戸期の農民・商人の領国移動は可能でしたか。そうなら、その手続きなどはどうしたらよかったのですか。
 補足<です。>
 わが祖先は、江戸中期に他領から一家をあげて移転してきました。(移転先に)身元引受人である親戚がおり、旦那寺と庄屋が証明書のようなものを発行し、案外簡単に移転できたのだと、伝承されています。これは恵まれた例なのでしょうか?

  いぬなきやまさん・・・
 藩の政治形態により困難な場合もあるのですが、・・・比較的、自由だったようです。天領だった佐渡には鉱山の繁栄を受け他領から、様々な身分の人々が集まり商工業に従事していますし、佐渡奉行所も他領への移住は勝手次第と布令を出しています。福岡藩領でも転出や転入は自由だったようで、旧福岡藩領内の寺院に残る過去帳には出身が薩摩、日向、美濃、陸奥と言う人々の記載があるそうです。私の遠祖も薩摩の頴娃と言う所に居住していた半農半士的な郷士でしたが、江戸時代中期ごろ、何らかの理由で近所の郷士仲間の家と共に福岡へ移住し福岡藩から足軽として採用されたそうです。あの入出国が難しかったといわれる鹿児島藩領でも檀那寺の寺請証明と地域の責任者の認可があれば他領への移住は簡単に認められていたようです。」
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1252679817

⇒参勤交代制等で移転の自由が制約されていた武士(典拠省略)以外の人々は、事実上、移転の自由を謳歌していた、とさえ言えそうだ。(太田)

⇒⇒要するに、諭吉は、政府/政治権力論を、江戸時代を念頭に、欧米の言葉や思想を援用して展開したのではなかろうか。(太田)
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(続く)