太田述正コラム#11071(2020.1.27)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その38)>(2020.4.18公開)

 「・・・福沢の政治論が高度に状況的思考に基いていることは<既に>述べた所であるが、同じ状況的思考といっても、国内政治と国際政治の場合にはその現れ方は必ずしも等しくない。
 国内政治論においては、基底となっている政治原理自体には大体において連続性があり、ただそれを具体的状況に適用する際に強調点が異って来るのであるが、これに対して国際政治の場合には、立論の変化は必ずしも具体的状況に対する処方箋の変化にとどまらずに、ヨリ深く地殻の論理自体にまで及んでいる。・・・
 彼の国際社会観は、『学問のすゝめ』を書いた頃までは大体において啓蒙的自然法を根底にしており、その限りにおいて国内社会観の場合と完全に一致していた。
 すなわち国際社会における「自然法」(道理)の支配、それを前提とする国家平等観である。・・・
 しかもヨリ重要なことは、個人の自由独立と国家のそれとが単に類推によってパラレルに説かれるだけでなく、「一身独立して一国独立す」という有名な命題の示すように、両者の間に必然的な内面的連関が成立することである。・・・
 ところがそれから僅か3、4年の後に福澤が「内国に在て民権を主張するは、外国に対して国権を張らんが為めなり。(中略)民権と国権とは正しく両立して文理す可らず」(通俗国権論、緒言、全集四)と・・・書いたとき、彼の国際社会の論理はすでに自然法を離れていた。
 そこでは、「和親条約と云ひ万国公法と云ひ、甚だ美なるが如くなれども、唯外面の儀式名目のみにして、交際の実は権威を争ひ利益を貪るに過ぎず、(中略)百巻の万国公法は数門の大砲に若(し)かず、幾冊の和親条約は一筐の弾薬に若かず、大砲弾薬は以て有る道理を主張するの備に非ずして無き道理を造るの器械なり」(通俗国権論、全集四)という露骨なマイト・イズライトの主張が掲げられている。・・・
 彼の意識的な誇張を割引せずに受取ることは危険であるが、国際社会における「道理」の支配の否定はこれ以後の所論において強化こそすれ、弱まることはなかった。・・・
 ともかく一度びこのような国際社会の認識の上にたてば、国家的独立を確保する途が福沢のいわゆる「権道」たらざるをえないのはむしろ当然である。・・・
 <こうして、>福沢は嘗ての立脚点であった個人間と国家間の規範の同質性を否定することによって、まぎれもなくかの国家理由(raison d’Etat)<(注39)>と呼ばれるものの認識に到達したのである。

 (注39)レーゾン・デタ。「国家理性のこと。国家が宗教・人格・法・道徳・倫理的規範に優越し、国家そのものが自己目的となる。国家は自己の維持・存続のため独自の法則や行動の準則をもつことをレーゾン・デタと称する。レーゾン・デタの観念が成立すると、国家は法・道徳・宗教に優越するとともに、それらを利用することができるようになる。また、レーゾン・デタは個人の人格に優越するので、国家は被治者のみならず権力者にも優越する。レーゾン・デタの観念は国家の自律を促すとともに、権力者の恣意(しい)を排除する機能を担った。
 古代から、権力と個人的倫理の緊張関係と権力の優越という観念は存在していた。16世紀イタリアで近代国家の形成を背景に、ボテロGiovanni Botero(1540―1617)が『国家理性について』を著し、「国家理性とは、国家を確立・維持・拡大するための諸方策についての知識である」と定義した。この時代に国家理性が新たに定義された背景として、中世的普遍秩序と国内的封建秩序とに対して近代国家が自立し対抗しなければならなかったからである。絶対王政の下では、レーゾン・デタは普遍的統一秩序形成のイデオロギーへと転化した。近代市民革命後、国民国家が成立すると、国内が民主的に編成されレーゾン・デタの観念は消滅するかにみえた。しかし、国民国家はより広い大衆を基盤とし、資本主義の発展と相まって、ナショナリズム、大衆操作を駆使して、事実上のレーゾン・デタの復活が行われた。現代の国家においてはレーゾン・デタが国家の原動力となっている。[瓜生洋一]」
https://kotobank.jp/word/%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%BE%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%BF-878830

 自然法思想からレーゾン・デタの立場への過渡を表現するものとして『文明論之概略』は特殊の地位を占める。・・・
 本書では未だ福澤は国際関係を全く弱肉強食のホッブス的自然状態とは見ていない。
 「単に之(戦争)を殺人の術と云へば悪む可きが如くなれども、今直に無銘の師を起さんとする者あれば、仮令ひ今の不十分なる文明の有様にても、(中略)或は談判の掛引あり、万国の公法もあり、学者の議論もありて、容易に其妄挙を許さず」(同上)。
 ひとはここに自然法的な規範主義とレーゾン・デタ思想との興味ある交錯を読み取るであろう。」(142~149)

⇒『学問のすゝめ』は、「1872年(明治5年2月)初編<が>出版<され、>以降、数年かけて順次刊行され、1876年(明治9年11月25日)十七編出版を以って一応の完成をみ<、>・・・その後1880年(明治13年)に「合本學問之勸序」という前書きを加え、一冊の本に合本された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E5%95%8F%E3%81%AE%E3%81%99%E3%82%9D%E3%82%81
ものであるのに対し、『通俗国権論』は、1877年(明治11年5月)から執筆され、翌1878年(明治12年3月)に出版された
http://dcollections.lib.keio.ac.jp/en/fukuzawa/a30/93
ものなのですから、両者は殆ど同時期に執筆されたと言ってよく、丸山の言うように、後者は前者の「3、4年の後」に「書いた」ものではありませんし、『文明論之概略』もまた、「1875年(明治8年)8月・・・に刊行され」た
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%98%8E%E8%AB%96%E4%B9%8B%E6%A6%82%E7%95%A5 前掲
のですから、両者の間にではなく、同時期に、執筆されたものです。
 ということは、それぞれが、異なった読者層をターゲットにしていて書かれた目的が違う、と見るのが自然でしょう。
 諭吉自身が、『文明論之概略』について、「年配の儒教学者を洋学者の味方にしようと思いついて著した著作であり、読者が50歳以上の老人と想定して、特に文字を大きくして読みやすくし、昔風の『太平記』のような体裁で印刷した」と説明している(上掲)ことは示唆的です。
 恐らくは、『学問のすゝめ』は、かつて単細胞的な攘夷論者であった人々を開国論へと遅まきながら洗脳しようとしたアジ文書であり、他方、『通俗国権論』は若い人々に島津斉彬コンセンサス、具体的には、その横井小楠コンセンサスとの共通部分、及び、アジア主義、を吹き込むためのアジ文書であったのに対し、『文明論之概略』は、諭吉の著作としては珍しく(?)、「インテリ」向けの、(あくまでも相対的な話ですが、)中庸を得た、学術的文書だったのではないでしょうか。
 いずれにせよ、「国際政治の場合には、<福沢の>立論の変化は必ずしも具体的状況に対する処方箋の変化にとどまらずに、ヨリ深く地殻の論理自体にまで及んでいる」だの「<福沢は>嘗ての立脚点であった個人間と国家間の規範の同質性を否定<するに至った>」だのといった丸山の主張はナンセンスである、と言いたいですね。(太田) 
 
(続く)