太田述正コラム#11075(2020.1.29)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その40)>(2020.4.20公開)

 「・・・「他人愚を働けば我も亦愚を以て之に応ぜざるを得ず。他人暴なれば我亦暴なり、他人権謀術数を用れば我亦これを用ゆ。蓋し、(中略)人為の国権論は権道なりとは是の謂(いい)にして、我輩は権道に従ふ者なり」(時事小言、全集五)・・・
 元来福沢のなかには・・・偽悪的なシニシズムが流れていた。
 こうしたモメントが個人間より遥かに道徳性の低い国際関係の観察に当っては自から幾層倍に拡大されたのである。
 しかも国民的独立の存亡を賭けた国家間にあってはそうした「世渡(よわたり)の術」はもはや冗談ではなく真剣な政治的考慮の問題であった。・・・
 「古来世界の各国相対峙して相貪るの秋は禽獣相接して相食むものに異ならず。(中略)此点より見れば我日本国も禽獣中の一国にして、時として他に食まるゝ歟(か)、又は自から奮って他の食む歟、到底我れも彼も恃む所のものは獣力あるのみ」(外交論、明一六、全集九)。
 朝鮮の内政改革のために日本が三百万円を貸与した際にも、彼は日本人の義侠を世界に発揮したなどという論を一蹴し、「義侠に非ず自利の為めなり」(明二八、全集十五)と言い切った。
 福沢が・・・香港碇泊中、目撃した英国人の暴状から受けた深刻な印象を後日回想しつつ、「今日我輩が外国人に対して不平なるは尚(な)ほ未だ彼の圧制を免かれざればなり、我輩の志願は此圧制を圧制して独り圧制を世界中に専(もっぱ)らにせんとするの一事に在るのみ」(圧制も亦愉快なる哉、明一五、全集八)といっているのは彼の独立自尊の原則の最も甚だしい逸脱の例であるが、その際でも彼は英国人を奴隷のように駆使する夢想を「血気の獣心」と呼んでいる。<(注41)>

 (注41)「血気の獣心」登場の文脈。↓
 「我帝国日本にも幾億万円の貿易を行ふて幾百千艘の軍艦を備へ、日章の旌旗(せいき)を支那印度の海面に飜へして、遠くは西洋の諸港にも出入りし、大に国威を耀(かがや)かすの勢を得たらんには、支那人などを御すること彼の英人の挙動に等しきのみならず、現に其英人をも奴隷の如くに圧倒して其手足を束縛せんものをと、血気の獣心自から禁ずること能はざりき。云々」(圧制も亦愉快なる哉、明一五、全集八)
https://ennoukou.at.webry.info/200607/article_5.html
 諭吉による、同趣旨の記述を紹介しておく。↓
 「当時我輩は此有様を見て独り心に謂(おもへ)らく、印度支那の人民が英人に窘(くるし)めらるるは苦しきことならんが、英人が威権を擅(ほしいまま)にするは又甚だ愉快なることならんとて、一方を憐むの傍に又一方を羨み、吾れも日本人なり、何れの時か一度は日本の国威を耀かして、印度支那の土人等を御すること英人に倣ふのみならず、其英人をも窘めて東洋の権柄を我一手に握らんものをと壮年血気の時節、竊(ひそか)に心に約して今尚忘るること能はず。」(東洋の政略果して如何せん、明十五、全集八?)
https://blechmusik.xii.jp/d/hirayama/h17/

 もし福沢が生きて満州事変以後の日本に氾濫したような帝国主義の道徳的粉飾のための美辞麗句に接したならば、恐らく嘔吐を催したであろう。

⇒「圧制も亦愉快なる哉」は・・「東洋の政略果して如何せん」もそうですが、・・その年に創刊されたばかりであったところの、時事新報、に掲載されたコラムであって(上掲)、「馬鹿者と雑居すれば、ひとり悟りを開くわけにも参らず、時事新報にも毎度つまらぬことを記し候こと」の一環であることを踏まえれば、丸山のように、たまたま自分の偏頗な諭吉観から著しく逸脱する諭吉のかかる言説の解説に、大汗をかく必要などないのですがね・・。(太田)

 その意味でたしかに福沢はM・ウェーバーのいう「醒めた(ニユヒテルン)」<(注41)>精神の持主であった。

 (注41)「ウェーバーは、大塚久雄が導入したことで近代を善と思っている人みたいなニュアンスで伝えられてしまったところがある。大塚も晩年は見方を変えるようですが、実際は、ウェーバーは近代に引き裂かれてしまっている。
 たとえば、個人主義とか近代的なものをウェーバーはしばしばドイツ語の「nuechternニュヒテルン」という言葉で表現していますが、これは冷酷とか、冷淡という言葉です。だからウェーバー自身がアンビバレントであって、近代化をよしとする部分がある反面、嫌う部分もかなりあったように見える。ところが、それを言えない空気が戦後日本に一時期漂っていた。」(三浦展)
http://culturestudies.jp/interview/vol03/04.html#.XjEtPmdxfAQ
 三浦展(あつし。1958年~)。一橋大社会学部卒。三菱総研等を経て、株式会社カルチャースタディーズ研究所を設立し、同社の代表取締役に就任。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E5%B1%95

⇒何かというと、ウェーバーを持ち出す丸山にも困ったものです。(太田)

 だから彼の「マキアヴェリズム」は–ここでも本来のそれと等しく–「容易に用兵を談ず可らず」(明三0、全集十六)として盲目的な武力行使に反対<するものであって>、・・・外交にとって弾力性の保持をヴァイタルな条件と考えたのである。」(153~156)

⇒「容易に用兵を談ず可らず」もまた、時期こそずっと後ですが、時事新報に掲載されたコラムなんです
https://blechmusik.xii.jp/d/hirayama/h17/ 前掲
が・・。
 とにかく、諭吉の書いたもの一般について言えることながら、とりわけ時事新報に掲載されたコラムに関しては、その一つずつについて、その折の内外情勢、や、読ませたかったターゲット層が何であったか・・時事新報の読者の範囲内ではあっても・・、等、を見極めた上でないと、それを書いた諭吉の狙いなど、軽々には分からないはずなのです。(太田)

(続く)