太田述正コラム#11079(2020.1.31)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その42)>(2020.4.22公開)

 「福沢において・・・国際関係を国内関係より重視する立場がきわめて早くからとられていたことは既に述べた。

⇒改めて不思議でならないのは、丸山は、一体、明治維新はどうして起きたのかと思っていたのか、です。
 それが唯一の理由だとまではさすがに言わないけれど、最大の理由が、欧米勢力の東漸という「国際関係」の大変化にあったことは否定のしようがない以上、諭吉を含む、当時の日本のまともな識者達の立場が、一貫して、「国際関係を国内関係より重視する」ものであったのは当たり前ではないでしょうか。(太田)

 しかしそれは両者の問題を無関連に切り離すことでは決してなく、「人民同権の大義」は「外国の強敵に抗せしむるの調練」であり「下た稽古」であるという意味において、民権は国権に従属させられたにとどまるのである。

⇒こういったくだりについても、改めて不思議でならないのは、丸山は、一体、明治維新をいかなるものと認識していたのか、です。
 それが「欧米勢力の東漸という「国際関係」の大変化」(上述)に対処するための「国内関係」の抜本的再編、刷新、でなかったとしたら、一体、明治維新なるものは、何だったのよ、と。
 だとすれば、「民権<が>国権に従属させられた」に決まっているでしょうが、と、言いたくなります。(太田)

 むしろ却って「下た稽古」が出来なければ、換言すれば「内に居て独立の地位を得ざる」人民によっては、「独立の権義を伸ること能はず」(学問のすゝめ、三編)という点からいえば、民権の伸長を含む国内の近代化こそが対外的独立の前提条件でなければならない。
 その限りで、「西洋諸国の人が東洋に来て支那其外の国々に対する交際の風を察するに、其権力を擅(ほしいまま)にする趣は封建時代の武士が平民に対するものと稍(や)や相似たるが如し。
 東洋の諸港に出入する軍艦は即ち彼れが腰間の秋水<(注44)>にして、西洋諸国互に利害を共にして東洋の諸国を圧制するは、武家一般の腕力を以て平民社会を威伏する者に異ならず」(条約改正、明一五、全集八)というとき、それは単なる比喩以上のものを意味していた筈である。

 (注44)ようかんのしゅうすい。「(「秋水」は、曇りなくとぎすました刀の意) 腰にさした利刀。
※山陽詩鈔(1833)四・前兵児謡「衣至レ骭、袖至レ腕、腰間秋水鉄可レ断」」
https://kotobank.jp/word/%E8%85%B0%E9%96%93%E3%81%AE%E7%A7%8B%E6%B0%B4-652831

⇒江戸時代のように、武士以外の国民がそれぞれの分野において匠を追求する等の努力をして生活しているだけでは、「欧米勢力の東漸」に対処するには不十分であり、有事においては、彼らにも、長州藩の騎兵隊のように、志願し、或いは、徴兵に応じて、戦ってもらう必要がある以上、平民達をその気にさせるためにも、欧米諸国におけるような意味において、「民権の伸長を含む国内の近代化」を図る必要がある、というのは当たり前でしょう。(太田)

 福沢にとって本来内部の解放と対外的独立とは不可分の問題として提起されていた。
 ところが、明治14、5年頃朝鮮問題が緊迫化する頃から、この両者の問題はようやく分離の兆を露わし、「我輩畢生の目的は唯国権皇張の一点に在るものにして、内の政権が誰れの手に落るも之を国権の利害に比して其軽重固より同年の論に非ざれば、其政治の体裁と名義と或は専制に似たるも、此の政府を以てよく国権を皇張するの力を得れば以て之に満足す可し」(藩閥寡人政府論<(注45)>、全集八)というように、国際的視点の優位は国内政治に対する無関心–とまでいえなくとも、軽視という形で表現されるようになったのである。」(157~158)

 (注45)「時事新報<は、>・・・創刊して3ヵ月後の6月8日付が突然、発行停止となる。当時、新聞は「新聞紙条例」(明治8年)で規制されていた。「国安の妨害」の理由に内務大臣が発行禁止あるいは停止にできた。5月1日にスタートさせた連載社説「藩閥寡人政府論」を時の政府は咎(とが)めた。薩摩と長州で主要閣僚が占められるのでは、日本が今後国会を開設する際の妨げになるとの論調だったといわれる。4日後の12日に停止処分は解かれるが、権力側からの警告メッセージだったのだろう。「次は発禁(=廃刊)」との。
 もともと福沢の政府への論調は敵対ではなく、調和である。政府の参議であった大隈重信、伊藤博文、井上馨からイギリス流の議会を開設するので、国民を啓蒙するような新聞をつくってほしいと請われ、議会開設論者だった福沢は3参議に協力を約束し、準備に入る。ところが、大隈、伊藤、井上の不和が表面化し、議会開設のプロモーターだった大隈が明治14年(1881年)10月に突然辞任する。議会開設プランが事実上、頓挫してしまう。機材、人材を用意し新聞発行の準備を整えていた福沢は引くに引けない状態に陥るものの、中上川彦次郎<(前出)>(後に「三井中興の祖」と呼ばれる)の協力を得て、時事新報の創刊に踏み切る。だから、もともと政府権力と敵対する目的で新聞事業を始めたわけではない。議会開設を先導するこそが自らの信念の具現化だった。「藩閥寡人政府論」も議会開設に向けた正論を押し出したものだった。その議会が開設するのは大隈辞任の9年後の明治24年(1891)のことである。」
https://blog.goo.ne.jp/f-uno/e/ccce6f470a0086ddbf3f2072e2c0c30f

⇒丸山は、「注45」に記されているところの、諭吉の「藩閥寡人政府論」の執筆意図を紹介せずして、その中の一部分を抜き取って紹介しているわけであり、読者を惑わすものです。
 諭吉が追求していたところの、議会、の開設後であれば、民権を背景に成立した議会の多数意見が協賛した「専制「に似たる」」政権は論理的には専制政権たりえませんし、そもそも、その時が有事であれば、どんな国においても、その政権は、むしろ、「専制「に似たる」」政権であってしかるべきであるわけであり、それくらいのことは、諭吉だって分かっていたはずです。(太田)

(続く)