太田述正コラム#11085(2020.2.3)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その45)>(2020.4.25公開)

6 福沢諭吉の人と思想–1971年

 「・・・福沢が生涯に一貫してアピールしたことは、日本人の「品性を高尚に保つ」こと、また高尚にすることでした。
 品性にはカラクトルという英語が当ててあります。・・・
 <そして、品性が高尚であることとほぼ同値であるところの、>独立自尊の反対概念で、独立自尊の欠如体が怨望・・・まあ一口でいえばルサンチマンということです・・・になる<というのです>。
 これ以外の、他の悪徳というのは、善徳と紙一重だ、と彼は言うわけです。
 傲慢と勇敢は紙一重だ。
 粗野というと悪いようだけれど、フランクである、率直である、というといいことになる。
 浮薄、オッチョコチョイというと悪いようだけれども、鋭敏、頭の回転が早いというと、これはいいことになる。・・・
 ところが、まったく陰性一方で、生産性がゼロなのが怨望なのです。・・・
 自分が上がるのではなくて、他人を不幸に陥れ、下に引きずり下ろして彼我の平均を得ようという心理を、彼は怨望と言ったのです。
 他人に対して常に羨み、嫉妬し、対峙するという感情ですから、独立自尊と反対になります。・・・

⇒丸山は、あたかも、(自身は全く気付かなかったところですが)その大部分が杉山構想の実現のためにその一身を捧げた、(丸山に比べ、遥かに頭が良く、志に至っては比較を絶するほど高かった、)いわゆるA級戦犯達に対し、戦前・戦中の思い上がった、かつ、短慮に基づく、「ルサンチマン」に基づき、「自分が上がるのではなくて、」A級戦犯達「を不幸に陥れ、下に引きずり下ろして彼我の平均を得ようという心理」、すなわち「怨望」に取り付かれて、彼らを非難し、蔑んだ(コラム#省略)、自分自身について語っているかのようですね。(太田)

 <ところで、>鎌田栄吉<(注49)>が「福沢コンパス説」というのを・・・『我が福沢先生』という本(1931年刊)・・・の中<で>・・・言っています。・・・

 (注49)1857~1934年。「紀州藩<士>・・・の子<で、>・・・藩校・学習館に入り兵学・漢籍を学び、・・・藩の選抜を経て・・・慶應義塾に入る。1875年(明治8年)卒業し慶應義塾で教鞭を取る。・・・1877年(明治10年)に西南戦争が起こると塾生の多くが藩に帰郷したため財政難となるが日夜寝食を忘れて身を教職に捧げる。1881年(明治14年)に設立された公立鹿児島学校(後の鹿児島県立中学造士館)の教頭として聘せられる。1884年(明治17年)内務省御用掛となる。1886年(明治19年)大分中学校長に就任し、1887年(明治20年)大分県尋常師範学校長に転じ1889年(明治22年)まで在任した。1894年(明治27年)には・・・和歌山1区から衆議院議員に当選。その後、1898年(明治31年)に慶應義塾長(1922年まで)、高等教育会議員となり、1906年(明治39年)・・・に貴族院議員に勅撰される。慶應義塾では、臨時教育会に端を発する学校教練首唱者の山川健次郎(東京帝大総長)と共に軍事予備教育を確立するよう提言し兵式体操を改善して、退役下士官に代え現役将校を起用。1919年(大正8年)には国際労働機関開催の第1回国際労働会議に政府代表として出席。1922年(大正11年)には文政審議会委員、教育評議会会長となり、加藤友三郎内閣の文部大臣となった。1927年(昭和2年)より枢密顧問官を務め、同年に帝国教育会長に就任した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E7%94%B0%E6%A0%84%E5%90%89

 うまい譬喩(ひゆ)だとは思うのですけれども、本当は正確ではない。
 なぜならば、コンパスの場合には、片一方の足は不動で、片一方の足は動く。
 ですから、不動の脚の具体的な適用例として、もう一方の脚の動き方を解釈すればいいわけです。
 しかし、片一方の動く足との関連で、独立の精神のあり方が決まってくるということになると、そうはいかない。
 中心自体が場との関係で軌跡を描くわけです。・・・」(165、173、175、178)

⇒ここも、丸山自身が、自らの諭吉論の根本的な誤りについて、(自分では全く気付かずして、)語っているかのようです。
 言うまでもなく、諭吉の譬喩としては、鎌田が正しく、丸山が誤っているわけです。
 というのも、諭吉は、一種のコンパスであって、片一方の足は不動で、島津斉彬コンセンサスであり、この軸足の実現ために、コンパスそのものの大きさを変えたり、もう一方の足(言動)との間隔を伸縮させたりする形で、言動に自在に軌跡を描かせたからです。
 鎌田もまた、諭吉の愛弟子としての生涯を生きた人物であったことは、「注49」が物語っていますよね。
 (なお、御三家の一つであった紀州藩の藩校では、昌平黌とは違って、兵学も教えていたようですね。その藩校のことを、尾張藩の藩校ともども、機会があったら、調べてみたいものです。)

(続く)