太田述正コラム#1061(2006.1.26)
<on the job training・実学・学問(その3)>
日本の大学を実学の府にしてしまった責任は、遺憾ながら我が敬愛する福澤諭吉にある、というのが私の考えです。
福澤の「学問のすゝめ」の一節(http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/great/gb/great_yukichi.htm。1月26日アクセス)
をお読み下さい。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり。されば天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ位にして、生れながら貴賎上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働を以て天地の間にあるよろづの物を資り、以て衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨をなさずして各安楽に此世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今広く此人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、其有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。其次第甚だ明なり。実語教に、人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに由て出来るものなり。学問をするには分限を知る事肝要なり。人の天然生まれ附は、繋がれず縛られず、一人前の男は男、一人前の女は女にて、自由自在なる者なれども、唯自由自在とのみ唱へて分限を知らざれば我儘放蕩に陥ること多し。即ち其分限とは、天の道理に基き人の情に従い、他人の妨を為さずして我一身の自由を達することなり。」
この中の、「賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに由て出来るものなり。学問をするには分限を知る事肝要なり。」というくだりにまず注目しましょう。
この後段を、「また、学問をすれば自ずから分限を知るものなり。」と逆転させれば(注8)、私が申し上げていること、つまり、「現実観察力と理論化能力を身につけたければ(=賢人になりたいのであれば)、大学で学問を習得する必要がある。また、学問を習得することは謙虚さ(分限)を知ることにもつながる」と全く同じになります。
(注8)ここが逆であることは、私は余り気にしていない。そもそも、賢人とは分限を知る(=謙虚な)人間でもあるはずだし、また、分限を知ることは学問をする前提であると同時に結果でもあるのではないか、と思うからだ。
そんなことは間違いだ、という意見の方も読者の中にはおられるようですが、この際、福澤に免じて、正しいかもしれない、とご自分に言い聞かせてください。さもないと、先に進めないからです。
その上で問題になるのは、福澤が、学問を習得することは、「かしこき(clever)・・富める(rich)・・貴<き>(noble)人(person)」になるための手段である、と言っている点です。
この「富める」をキーワードにして福澤の「学問のすゝめ」の要点を露骨な形に読み替えると、「金持ちになって上流階級の仲間入りを果たすための賢さを身につけることが学問を習得する目的だ」ということになるでしょう。
これこそが私に言わせれば、福澤の「実学の精神」なのです(注9)。
(注9)丸山真男は『福沢に於ける「実学」の展開』(福沢諭吉集 筑摩書房 1975年刊)において、福澤の「実学」について、これを実業学としての功利精神と見るべきではなく、福澤は、学問と生活の結合という全く新しい学問観を提唱たのだ、と言っており(http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/great/gb/great_yukichi.htm上掲)、また、慶應義塾大学の公式サイトは、「福澤がいう実学は実際に役に立つ学問というより、「科学」を指します。この科学を単なる知識としてでなく、実際の行動に活かせるように学ぶことが義塾伝統の「実学の精神」です。」としている(http://www.keio.ac.jp/keio_sogo_master/prologue.html。1月26日アクセス)が、私にはどちらも苦しい言い訳にしか思えない。
では、日本の大学は、いかなる経緯によってことごとく、福澤的な意味における実学の府になってしまったのでしょうか。
5 実学の府としての日本の大学
(1)実学の府としての官学
官学の歴史は東京大学の歴史として始まります。
その東京大学の起源は、簡単に申し上げれば、徳川幕府が幕末に設置した洋書調所(蕃書調所)と西洋医学所(種痘所)に遡ります。
この二つの機関が明治維新以降、曲折を経て、それぞれ文理学の東京開成学校と医学の東京医学校となり、この二つが1877年に合併して、日本最初の大学である東京大学(東大)が誕生します。
次に1885年、東京法学校が法学部に合併されます。東京法学校は司法省明法寮として創設されたものです。翌1886年には、工部大学校が合併されます。工部大学校は工部省工学寮として創設されたものです。更に1890年には東京農学校が合併されます。東京農学校は、内務省農事修学場として創設されたものです(http://www.ne.jp/asahi/bunko/enkaku/nempyo1.htm。1月26日アクセス)。
こうして東大は法文理工農医の6学部からなる総合大学となったのです(注10)。
(注10)戦前に経済学部が法学部から分離し、また戦後に教養学部と教育学部が発足し、更に薬学部が医学部から分離し、9学部体制となって現在に至っている。
この間、1880年には、大学院の整備が始まっています。これは、お雇い外人教師と留学帰りの教員に依存する体制から、自前で教員を養成する体制への切り替えが始まったということです。
(以上、http://www.ut-life.net/introduce/history.html(1月26日アクセス)による。)
以上からお分かりのように、日本の官学は、欧米の文物を研究するとともにその研究者を養成する国家機関を起源として、国防と殖産興業のための実学を研究し、教育するという、実学の府として始まったのです。
その教育とは、まず第一に実学の研究者と官吏を養成することでした。
以上のような官学の性格は、大学の数が増えた現在においても、基本的に維持されていると言ってよいでしょう。