太田述正コラム#11095(2020.2.8)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その50)>(2020.4.30公開)

 「・・・ここでまた鎌田栄吉先生に、もういっぺん登場してもらいますが、鎌田氏が、「福沢先生<(注56)>と学生」という文で・・・「理屈はどうでもつけられる。例へばミルの自由論<(注57)>にした所が、理論の一つとしては実に偉い。然しながら、あれと全く反対の立場も考へられるではないか」と<福沢先生は書いておられる>。・・・

 (注56)「慶應義塾大学で、先生と呼ばれる人間は創設者の福沢諭吉しかいません。・・・公式な行事などでは大学教授も学生もすべて「君付け」で呼ばれています。例えば、休講などの案内などは、すべて君で表記されています。ただし、日常の学生生活においては、やはり大学教授は先生と呼ばれています。」
https://www.excite.co.jp/news/article/B_chive_only-one-keiou-sensei/
 (注57)1859年出版。Harm Principle(後出)を唱えた。「ミルによれば文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならない<からだ。なお、>当時参政権の拡大をもたらしていた民主主義の政治制度は大衆による多数派の専制をもたらす危険性があり、これをミルは警戒していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E8%AB%96_(%E3%83%9F%E3%83%AB)

 それで、我々もただ福沢先生に感服するだけではつまらないと思って、研究してみると、・・・たとえば、ミルの自由の理は、元来ウィルヘルム・フォン・フンボルト<(注58)>から出ているけれども、フンボルトは後に説を変えて、むしろ国家主義になった<ということが分かった、と>。・・・

 (注58)「ヴィルヘルム・フォン・フンボルトはドイツの言語学者で外交官でもあり、教育制度の改革者でもあったが、・・・言語を<材料に>使って人間の精神について研究し、文化の違いを解明しようとした・・・。1767年に生まれ1835年に亡くなったフンボルトは、カントやヘーゲルといった哲学者たちと同時代を生き、ゲーテとシラーのような文豪の友人であった。弟のアレクサンダー・フォン・フンボルト<も>19世紀初頭において、もっとも影響力のある知識人の一人だった。」
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/pdf_23-2_alt/RitsIILCS_23.2pp149-166ISHIDA.pdf
 フランクフルト(オーデル)大、ゲッチンゲン大、で学ぶも、どちらも卒業はしていない、「フンボルトは、1791~92年にThe Limits of State Action[(Ideen zu einem Versuch die Grenzen der Wirksamkeit des Staats zu bestimmen)](死後の1850年上梓)を書き、啓蒙主義における自由の最も大胆なる擁護を行った。
 これは、ジョン・スチュワート・ミルの『自由論』に影響を与え、この『自由論』を通じて、フンボルトの思想は英語圏に知られるようになった。
 フンボルトは、ミルが後に、Harm Principleと呼んだところのものの、初期バージョンを概説したのだ。」
https://en.wikipedia.org/wiki/Wilhelm_von_Humboldt
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Limits_of_State_Action (「」内)
 ちなみに、Harm Principle(危害原理・危害原則)とは、「ある個人の行動の自由を制限する (=干渉する)際に、唯一可能なのは、その個人が他人に対して危害を加えることに抵抗することだけである、という原則のことをさす。この抵抗の中には、広義の不服従や攻撃も含まれる」
https://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/121018harm_Priciple.html
 フンボルトはまた、「ボローニャ大学、パリ大学に始まるそれまでの専門職業教育志向の大学スタイルとは違う教養志向の大学スタイル理念を提唱した。それを具現したのがベルリン大学である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88

⇒少しネットで調べてみたけれど、「フンボルトは後に説を変えて、むしろ国家主義になった」的な話は見つけることができませんでした。
 フンボルトが「言語哲学や言語人類学にも大きな貢献をした<」のは人生の後期においてである
https://en.wikipedia.org/wiki/Wilhelm_von_Humboldt 前掲 ところ、「>その姿勢は、インド・ヨーロッパ語族主義に立った差別的なものだった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88
ことをもって、鎌田は「国家主義」と捉えたのかもしれませんが・・。(太田)

 つまり、福沢のシンパシーは明らかにミルの『自由論』にあるわけです。
 けれども、ミルの『自由論』と反対の立場からの説を述べようと思ったら、いつでも述べられる。
 これもつまり役割交換です。
 自分と反対の考え方に対する理解力、それによって自分自身の考え方を練っていくということです。
 <これは、かの>惑溺、自家中毒に対する一つの処方にもなるわけです。」(197~198)

(続く)