太田述正コラム#11101(2020.2.11)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その53)>(2020.5.3公開)
「・・・福沢は西洋文明導入の先覚者ですが、こういう人生哲学を根本にもっていましたから、西洋文明にたいしても醒めた見方をしていました。
明治25年<(1892年)>12月16日から18日まで<時事新報社説として>発表された「富豪の要用」
< http://www.fmc.keio.ac.jp/common/pdf/tsushin15.pdf >
という論の冒頭には、次のような言葉があります。
「西洋文明国の事情を一見すれば、人生の自由を貴び、其同等同権を重んじ、文物燦然として誠に文明の名に違はざるが如くなれども、其自由発達の極は貧富の不平均を生じて之を制するの手段なく、貧者はますます貧に陥り、富者はいよいよ富を積み、名こそ都(すべ)て自由の民なれ、其実は政治専制時代の治者と被治者との関係に異ならず。又各国互に利害を異にして権を争ひ、此権利を守るに最終の方便は唯(ただ)兵力あるのみにして、兵を増し武器を作り多々ますます際限あることなし。以上の事情は固(もと)より百千年の後まで持続す可きものに非ず、到底数理の許さざる所なれども、左ればとて今の人事の実際に於て貧富を平均するの術なきのみか、強ひて之を行はんとすれば、唯社会の混乱惨状を買ふに足る可きのみ。或は兵備を無益なりとして之を徹せんか、国力忽ち微にして弱肉教職の奇禍を免かれ難し。故に文明世界今日の事態を評すれば、到底行く可らざる道を行きながら一歩を退く可らず、後世子孫の事は唯天命に在りとして真一文字に進行するものと云ふ可し。」<☆>
これを読むと、福沢が西洋文明の将来にたいして、いささかも幻想をもっていなかったことがよくわかります。
⇒「抑(そもそ)も文明の世界に国として商売の競争場裡に打て出たる上は、国の為めに富豪の必要なるは軍隊の必要なるに異ならず。即ち富豪のますます富むは兵員のますます集まりて一隊の実力を増すが如し。又富豪富むと雖も実際に自から費す所のものは僅に資産所得の一小部分に止まり、他は皆商売上に活用して商戦の働を為し、其戦の成敗は直に自国の勢力を軽重するものなれば、雌雄の資産にてありながら其効力は則ち国有に異ならずとの道理」<★>
https://books.google.co.jp/books?id=Pl9gCgAAQBAJ&pg=PA86&lpg=PA86&dq=%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89%EF%BC%9B%E5%AF%8C%E8%B1%AA%E3%81%AE%E8%A6%81%E7%94%A8&source=bl&ots=0iflh83gof&sig=ACfU3U0yuOMf2ORAFRtTfcSl1XhXMYXXNA&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwih6rSrgMnnAhVFM94KHQfrDUwQ6AEwBHoECAoQAQ#v=onepage&q=%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89%EF%BC%9B%E5%AF%8C%E8%B1%AA%E3%81%AE%E8%A6%81%E7%94%A8&f=false
ということを(そのタイトルからしても)言いたかったのが、諭吉の「富豪の要用」であることからすれば、丸山が引用した「富豪の要用」の箇所(☆)は、その補足でしょう。
日清戦争直前の、「1894年には東学党の乱(甲午農民戦争)が勃発すると親清派の閔氏勢力は清に援軍を求め、一方日本も条約と居留民保護、列強の支持を盾に介入し、乱は官軍と農民の和議という形で終結するが、淮軍と日本は朝鮮に駐屯し続けた。日本は閔氏勢力を追放し、大院君に政権を担当させて日本の意に沿った内政改革を進めさせた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%B0%8F%E6%9C%9D%E9%AE%AE
、また、「1890年代の朝鮮では、日本の経済進出が進む中(輸出の90%以上、輸入の50%を占めた)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%B8%85%E6%88%A6%E4%BA%89
、という、風雲急を告げる北東アジア情勢の下で、諭吉は、改めて、慶應義塾内外の人々に向けて、(官僚養成を掲げる帝大や軍人要請を掲げる陸士/海兵ではなく、実業人養成を掲げる)慶應義塾で学ぶ意義を訴えた、ということだ、と、私は思うのです。
そして、諭吉は、★で、カネを稼いで金持ちになることは国富を増大させ貧者もその余沢にあずからしめることになる、と説き、☆で、欧米諸国も金持ちにこうして国富を増大させているのだから、日本もそれに倣うことによってのみ、これら諸国に伍していくことができる、と、補足的に説いている、と。
従って、☆だけに注目して、丸山のように言うのはいかがなものでしょうか。(太田)
福沢にとって、近代化はむしろ「宿命的なもの」と言う意味をおびていました。
このように近代化を捉えながらも、しかも日本の課題として近代化を強力に推進していこうとする彼の態度は、ニヒリズムと紙一重の所にあったということができます。」(212~213)
⇒但し、丸山とは違った意味で、私自身も、「福沢が西洋文明の将来にたいして、いささかも幻想をもっていなかった」、と考えています。
私の言う、人間主義を中核とする日本文明、の、至上性、普遍性、すなわち、日本文明の欧米諸文明に対する優位、を、島津斉彬コンセンサス信奉者であったところの、諭吉も信じていたはずだからです。
そして、そんな諭吉にとって「宿命的なもの」とは、日本の、「近代化」ならぬ、「欧米諸文明の部分的継受による富国強兵」であり、このような「彼の態度は、ニヒリズムと紙一重の所にあった」どころか、「ニヒリズム」とは全く無縁であった、というのが、私の見解です。
(続く)